芦屋恒一

隣人女医の診察台に迫る熱(第1話)

この作品は18歳未満の方の閲覧を禁止します。フィクションであり、現実の人物・事件とは一切関係ありません。

## 第1話:隣室の視線、重なる孤独

 平日の夕暮れ、街灯がぼんやりと灯り始める頃、俺の住むマンションの廊下はいつも通り静かだった。58歳の俺、恒一は、長年勤め上げた会社を定年退職し、今は妻と二人でこの古い部屋で暮らしている。妻の恵子は俺より3つ年下、55歳。結婚して35年、子供はいない。互いに言葉少なになり、夕食の席でもテレビの音だけが響く日々が続いていた。今日もそうだった。味気ない食事を終え、俺はリビングのソファに腰を下ろし、新聞を広げたが、集中できなかった。胸の奥に、名前のつけられない淀んだものが溜まっていくのを感じていた。

 そんな折、隣室から物音がした。引っ越しの気配だ。俺たちの住むこのマンションは、都心から少し離れた閑静な住宅街にあり、住民は皆、仕事に追われる大人ばかり。平日夕方のこの時間、家族連れの賑わいなどない。ただ、風が窓ガラスを叩く音と、遠くの車のクラクションが聞こえるだけだ。気まぐれに立ち上がり、廊下を覗くと、ドアの前に段ボールが積まれ、白衣を脱いだばかりのような女性が荷物を運び入れていた。

 39歳くらいだろうか。すらりとした体躯に、肩まで伸びた黒髪を後ろで軽くまとめ、疲れた表情を浮かべながらも、目元に知的な光が宿っている。俺は自然と視線を向けた。彼女も気づき、こちらを振り向いた。僅かな間、互いの目が合った。その視線は、ただの挨拶のものではなかった。重く、深く、絡みつくように。彼女の瞳に、俺と同じような、日常の重みに耐える孤独が映っていた。俺は慌てて会釈し、部屋に戻ったが、心臓の鼓動が少し速くなっていた。

 彼女の名は遥だと、後で知った。同じマンションの管理人から聞いた話では、近くの総合病院で内科医をしている独身……いや、正確には既婚らしいが、夫のことはあまり話さないそうだ。いや、独身か既婚か、そんなことは今はどうでもいい。彼女の存在が、俺の単調な日常に、僅かな波紋を投げかけていた。

 それから数日後、俺は風邪を引いた。季節の変わり目、急な冷え込みが体に堪えたのだろう。朝起きた時から喉が痛く、熱っぽさが抜けなかった。妻に相談しても、「薬局で買ってきなさい」と素っ気ない返事。恵子は自分の仕事で忙しく、俺の体調など気にも留めていないようだった。仕方なく、市販の風邪薬を飲んだが、夜になると熱が上がり、咳が止まらなくなった。深夜の1時過ぎ、ベッドでうなされていると、ふと思い浮かんだのは隣室の彼女、遥のことだった。あの視線。あの、互いの孤独を察知した瞬間。

 翌日の夕方、俺は意を決して隣室のドアをノックした。平日、仕事から帰宅したばかりの時間帯。廊下は人影もなく、静寂が重い。ドアが開き、遥が現れた。白いブラウスに黒のスカート、病院帰りらしい。疲れた顔に、意外そうな表情が浮かぶ。

「ごめんなさい、突然で。隣の恒一です。実は風邪を引いてしまって……お医者さんにお聞きしたいことがありまして」

 俺はそう切り出した。彼女は一瞬、目を細め、俺の顔色を観察するように見つめた。その視線が、再びあの時のように重く絡みつく。熱っぽい俺の頰を、彼女の瞳が静かに撫でるようだった。

「それは大変ですね。熱はありますか? 症状を詳しく聞かせてください」

 遥の声は穏やかで、低く響く。プロの女医らしい落ち着き。俺は咳き込みながら、喉の痛みと微熱、食欲不振を伝えた。彼女はドアの内側からメモを取り、的確なアドバイスをくれた。薬の飲み方、安静の仕方。だが、最後に付け加えた言葉が、俺の胸をざわつかせた。

「症状が悪化したら、すぐに連絡を。私の連絡先を……ここに」

 名刺を差し出され、指先が触れそうになった瞬間、僅かな電流のようなものが走った。彼女の指は細く、白く、診察で何度も人の肌に触れてきたのだろう。その想像だけで、俺の体温が少し上がった気がした。礼を言い、部屋に戻る俺の背中に、彼女の視線が注がれているのを感じた。

 その夜、再び熱が上がった。深夜2時、汗にまみれ、息苦しさに耐えかねてベッドから起き上がった時、玄関のチャイムとインターホの音が響いた。こんな時間に誰だ? 妻はすでに深い眠りについている。俺はよろよろとドアに近づき、覗き穴から外を見た。そこに立っていたのは、遥だった。薄手のコートを羽織り、表情に心配の色を浮かべ、手に小さな診察バッグを持っている。彼女の瞳が、ドア越しに俺を捉えていた。

 ドアを開けると、冷たい夜気が廊下から入り込み、互いの息づかいが静かに混じり合う。遥の瞳は、心配げに、しかしどこか深い渇望を湛えて俺を見つめていた。

(続く)

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