芦屋恒一

隣人女医の診察台に迫る熱(第2話)

この作品は18歳未満の方の閲覧を禁止します。フィクションであり、現実の人物・事件とは一切関係ありません。

## 第2話:触診の指、静かに灯る熱

 遥の瞳が、深夜の薄暗い廊下で俺を捉えていた。心配げなその視線に、僅かな渇望の影が混じっているように見えた。俺は熱でぼんやりした頭でドアを大きく開け、よろよろと後ずさった。冷たい夜気が入り込み、互いの息が白く混じり合う。

「恒一さん、大丈夫ですか? 熱がかなり高いみたい。すぐに診ましょう。私の方に来てください」

 遥の声は低く、落ち着いていたが、どこか切迫した響きがあった。彼女は小さな診察バッグを握りしめ、俺の腕をそっと支える。細い指がシャツの袖越しに触れ、予想外の柔らかさに俺の体が僅かに震えた。妻の恵子に触れられることなど、もう何年もなかった。その感触が、熱のせいか、それとも別の何かか、胸の奥に甘い疼きを呼び起こす。

 俺は頷き、彼女に導かれるまま廊下を横切り、隣室のドアへ。平日深夜のマンションは、まるで時間が止まったように静かだ。遠くの街灯が窓から淡く差し込み、足音だけが重く響く。遥の部屋に入ると、柔らかな照明が灯り、空気に微かな消毒液の匂いが漂っていた。リビングの一角に、白いカーテンで仕切られた簡易診察スペース。診察台と棚に並ぶ医療器具が、彼女のプロフェッショナルな日常を物語っている。夫の気配はどこにもない。独り暮らしのような、抑制された空間だ。

「ここに座って。シャツを脱いでください。聴診器で心音を確認します」

 遥は淡々と指示を出し、俺を診察台の縁に座らせた。俺は熱に浮かされながらボタンを外し、上半身を露わにした。58歳の体は、若い頃の張りを失い、緩んだ肌が照明に照らされて影を落とす。それでも、彼女の視線が俺の胸に注がれると、僅かな緊張が走った。遥は聴診器を耳にかけ、冷たい金属を俺の肌に当てた。ゆっくりと、心臓の辺りを滑らせるように動かした。その感触が、ただの医療行為以上のものを呼び起こす。俺の鼓動が速くなり、彼女の瞳にその変化が映る。

「心音は少し速めですが、不整脈はありません。喉の腫れも確認します。口を開けて」

 彼女の指が俺の顎に触れ、優しく持ち上げた。細くしなやかな指先が、喉仏をなぞるように押さえ、内部を観察した。息が近い。遥の吐息が俺の頰にかかり、微かなフローラルな香りが混じる。病院帰りのシャンプーの匂いか、それとも彼女自身のものか。俺は視線を上げ、彼女の顔を見つめた。39歳の肌は、疲れを湛えながらも滑らかで、目元に知的な皺が刻まれている。その瞳が、俺の熱っぽい視線と絡みつく。互いの孤独が、再び重く交錯した。

「ありがとうございます……こんな時間に」

 俺は咳き込みながら呟いた。遥は指を離さず、僅かに首を傾げる。

「隣人として当然です。それに……私も、夫とはすれ違いばかりで。夜遅く帰宅しても、ただ疲れて寝るだけの日々。誰かの役に立てる瞬間が、せめてもの救いなんです」

 彼女の言葉に、僅かな震えが混じっていた。夫。管理人から聞いた既婚の事実が、初めて現実味を帯びる。俺と同じく、冷めた日常を抱えている。俺は自然と口を開いた。

「俺も……妻とは35年。言葉すら交わさなくなった。子供もいない。定年後は、ただ時間が過ぎるのを待つだけだ」

 抑制された会話の中で、互いの視線が深くなる。遥の指が喉から首筋へ移り、触診を続けた。リンパの腫れを確かめるように、優しく押した。肌に直接触れる感触が、電流のように俺の体を駆け巡った。熱が、風邪のものだけではないことに気づいた。胸の奥から、ゆっくりと広がる甘い疼き。58歳の体が、39歳の彼女の指先に反応した。年齢差が、かえってその引力を強めているようだった。

 遥の呼吸が、少し乱れ始めた。彼女のブラウスが、僅かに上下する。診察台の上で、俺たちの距離は自然に縮まる。彼女の膝が俺の腿に触れそうになり、互いにそれを意識する。視線の重さが、空気を濃くする。俺は彼女の瞳に、プロの仮面の下の渇望を見る。彼女も、俺の体に宿る静かな熱を感じ取っているはずだ。

「体温を測りましょう。腋下に」

 遥は体温計を取り出し、俺の脇に差し込む。その瞬間、彼女の指が俺の胸板に触れた。意図せずか、それとも。細い指先が、僅かに震えながら肌を滑る。俺の心臓が強く鳴り、彼女の瞳が揺らぐ。触診の名の下に、互いの肌が交わる。熱が灯る。風邪の熱ではなく、身体の奥底から湧き上がる、抑制された欲望の熱だ。

 体温計のピッという音が、静かな部屋に響く。遥はそれを抜き取り、数字を確認する。37.8度。微熱の域だ。だが、俺たちの間には、それ以上の熱が満ち始めていた。彼女の指が、まだ俺の胸に残る感触を確かめるように、ゆっくりと動く。震えが、伝わってくる。

 遥の手が、僅かに震えながら、俺の胸に……。

(続く)