篠原美琴

上司視線に潜む疼き(第2話)

この作品は18歳未満の方の閲覧を禁止します。フィクションであり、現実の人物・事件とは一切関係ありません。

## 第2話:デスク越しの止まる指

オフィスの空気は、連日の残業で重く淀んでいた。平日の夕暮れが窓辺を淡く染め、街灯の灯りが早くも点り始める頃。佐倉さんの指示で、プロジェクトの資料確認が続いていた。三日連続、十九時を過ぎてもデスクライトだけがぼんやりと浮かぶ。社内は静かで、遠くの廊下に足音が響くことも稀だ。他のチームはすでに帰宅し、残るのは私と彼女だけ。

佐倉さんは変わらず冷静だ。黒髪を耳にかけ、スーツの袖口から覗く細い手首が、資料をめくるたび微かに動く。入社二年目の私は、彼女のチームで日々を重ねる中で、その視線をますます意識するようになっていた。あの朝の交錯以来、指先の疼きが、日常の隙間に忍び込む。デスクに座る彼女の向こう側で、モニターを睨みながら、息を潜めて待つ。

「これ、確認して」

彼女の声が、低く響く。デスク越しに、資料の束を滑らせる。細い指が、紙の端を押さえながらゆっくりとこちらへ。白い爪が、淡い光を反射する。私は手を伸ばし、受け取ろうとする。指先が、触れぬ距離で止まる。わずか、数センチ。彼女の指が、資料の上で静止したまま、私の手の甲に視線を落とす。

息が、止まる。

オフィスの静寂が、急に濃密になる。エアコンの微かな音さえ、遠のく。彼女の瞳が、資料ではなく、私の指先に留まる。一瞬の揺らぎ。鋭い視線が、柔らかく揺らぐ。私の指が、無意識に微かに動くのを、彼女は見逃さない。互いの沈黙が、空気を熱く帯びさせる。胸の奥で、息が乱れ、吐き出せない。

彼女の指が、ゆっくりと資料を離す。引き戻される瞬間、指腹のわずかな曲線が、影のように私の視界を掠める。熱い余韻が、手の甲に残る。触れていないのに、肌が疼く。彼女は視線を上げ、私の顔に合わせる。唇が、ほんのわずか開く。言葉はない。ただ、瞳の奥に、かすかな揺れ。

「問題ないわね」

声はいつも通り、抑揚を抑えたもの。だが、その響きに、微かな息の揺らぎが混じる。私は頷くのが精一杯。喉が乾き、言葉を飲み込む。デスクの向こうで、彼女が椅子に寄りかかる。スーツの生地が、わずかに擦れる音。視線が、再び資料に戻るが、空気は変わらない。重く、甘く、痺れる。

作業を続ける。キーボードの音が、互いに響き合う。だが、集中は途切れ途切れだ。指先の距離を思い出すたび、体が熱くなる。デスクの木目が、指の感触を連想させる。彼女の視線が、時折こちらを掠める。気づかぬふりをして、モニターに目を落とす。だが、心臓の鼓動が、耳に響く。沈黙が、二人を包む。触れぬ距離が、かえって近さを増す。

二十一時を回り、ようやく資料の山が片付く。佐倉さんが立ち上がる。コートを羽織る仕草が、流れるように優雅だ。ハイヒールの足音が、床を叩きながら近づく。私は慌てて席を立ち、荷物をまとめる。彼女のデスク前で、視線が交錯する。一瞬、朝のそれと同じ熱が、瞳に灯る。

「お疲れ様です、上司」

「お疲れ様。エレベーターで」

彼女の言葉に、頷く。二人で廊下を歩く。足音が、重なり合う。オフィスの扉が閉まり、静かな空間に変わる。エレベーターのボタンを押す私の指を、彼女の視線が追う。扉が開き、中へ。二人きり。狭い空間に、互いの息遣いが響く。背後の鏡に、彼女の横顔が映る。黒髪の輪郭が、淡い照明に浮かぶ。

ボタンを押し、扉がゆっくり閉まり始める。直前、彼女がこちらを振り返る。視線が、絡みつく。鋭く、しかし奥底に柔らかな熱を宿した瞳。私の息が、乱れる。彼女の唇が、わずかに動く。言葉はない。ただ、沈黙の重さ。扉が閉まる瞬間、視線が離れない。熱い疼きが、胸から全身へ広がる。

エレベーターが降り始める。静かな振動が、体を震わせる。彼女の香りが、微かに漂う。視線を逸らせ、床を見つめる。だが、肌が熱い。指先から、首筋へ、這い上がる感触。夜のビル街へ出る扉が開く頃、互いの沈黙が、予感を残す。この距離は、いつ溶けるのか。

帰宅の道中、電車の窓に映る自分の頰が紅潮している。家に着き、部屋の灯りを落とす。ベッドに横たわり、目を閉じる。デスク越しの指の距離を、思い出す。あの止まった瞬間。視線の揺れ。息の止まり。エレベーターの扉前で、彼女の瞳に宿った熱。体が、甘く痺れる。静かな夜の闇が、疼きを増幅させる。

翌日も、残業の指示が下る。佐倉さんのデスク前で、視線が再び交錯する。沈黙の向こうに、何かが近づいている気がした。指先の熱が、互いの肌を繋ぐ予感。オフィスの夕暮れが、それを静かに待っている。

(約1980字)