篠原美琴

上司視線に潜む疼き(第1話)

この作品は18歳未満の方の閲覧を禁止します。フィクションであり、現実の人物・事件とは一切関係ありません。

## 第1話:深夜オフィスの指先

オフィスの窓辺に、街の灯りがぼんやりと滲んでいた。平日の夜遅く、時計の針は十一時を回っている。社内はひっそりと静まり返り、遠くのエレベーターの音だけが、時折低く響く。残っているのは、私と佐倉上司の二人だけだ。プロジェクトの資料整理が、予想以上に長引いていた。

佐倉さんは三十五歳。クールビューティーと社内で囁かれる存在で、黒髪をきっちりと耳にかけたその横顔は、いつも完璧なまでの冷静さを湛えている。細身のスーツが、彼女のしなやかな輪郭を際立たせ、ハイヒールの足音さえも、静かな威厳を帯びる。入社して二年、私は彼女のチームに配属されて以来、その視線を意識せずにはいられなかった。鋭く、しかしどこか奥底に柔らかなものを宿したような、あの視線。

「これを、棚に戻しておいて」

彼女の声は低く、抑揚を抑えたものだった。デスクの向こうから、厚いファイルの束を差し出される。私は頷き、受け取る。指先がわずかに触れそうになり、慌てて引く。彼女の指は細く、白く、資料の端を滑らせる仕草が、まるで何かをなぞるように優雅だ。

棚の前に立ち、ファイルを一冊ずつ整理する。背後の空気が微かに動いた気配がする。振り返らずとも、佐倉さんがデスクでキーボードを叩く音が、規則正しく響く。だが、ふとその音が止まった。

視線を感じた。

ゆっくりと後ろを振り返る。彼女は椅子に寄りかかり、こちらを見ていた。鋭い瞳が、私の手に留まっている。いや、正確には、私の指先に。ファイルを持った、私の右手の指先を、じっと。

一瞬の沈黙。オフィスの空気が、重く淀む。エアコンの微かな風さえ、止まったように感じる。彼女の視線は動かない。私の指が、わずかに震えるのを、彼女は見逃さない。息が、胸の奥で詰まる。吐き出せない。

「どうかしましたか、上司?」

声を出そうとして、かすれた。彼女はゆっくりと視線を上げ、私の顔に合わせる。唇の端が、ほんのわずか、弧を描く。笑みか、それとも別の何かか。わからない。

「いや、何でもないわ。続けて」

彼女の声はいつも通り、冷静だ。だが、その瞳の奥に、かすかな揺らぎがあった。私の指先から、ゆっくりと離れていく視線が、肌に残る。熱く、疼くような感触。棚に戻る手を、急に意識してしまう。指の腹が、互いに擦れ合う感触さえ、妙に生々しい。

作業を終え、デスクに戻る。彼女はすでに次の資料に目を落としている。私は席に着き、モニターを睨むが、集中できない。視線の余韻が、指先から腕へ、首筋へ、這い上がってくる。オフィスの静寂が、かえってそれを増幅させる。時計の秒針が、ゆっくりと進む音。遠くの街灯が、窓ガラスに反射する淡い光。すべてが、彼女の視線を思い起こさせる。

「今日はここまでね。お疲れ様」

彼女が立ち上がる。コートを羽織る仕草が、流れるように美しい。ハイヒールの足音が、床を叩きながら近づき、私のデスクの前で止まる。私は慌てて顔を上げる。彼女の視線が、再び交錯する。一瞬、息が止まる。彼女の瞳に、深夜の闇が映っている。

「お疲れ様です、上司。気をつけてお帰りください」

言葉を返すのが精一杯。彼女は小さく頷き、エレベーターの方へ歩き出す。扉が閉まる直前、振り返った彼女の横顔が、脳裏に焼きつく。オフィスに一人残され、ようやく息を吐く。だが、体は熱い。指先が、未だに疼いている。

帰宅の電車は、空いていて静かだった。窓に映る自分の顔が、頰に薄い紅を浮かべている。家に着き、シャワーを浴びる。水音が、耳に響く中、指先を無意識に撫でる。あの視線を、思い出す。佐倉さんの瞳が、私の指に留まった瞬間。沈黙の重さ。息の乱れ。

ベッドに横たわり、目を閉じる。オフィスの空気が、まだ肌にまとわりついている。静かな夜の闇が、疼きを増幅させる。明日、また彼女のデスク前に立つことを思うと、胸の奥がざわつく。視線が、交錯する瞬間を、想像するだけで、体が甘く痺れる。

翌朝、オフィスはいつも通りの喧騒に包まれていた。だが、私の足取りは重い。昨夜の余韻が、消えていない。デスクに着き、コーヒーを淹れにキッチンへ向かう途中、佐倉さんの部屋の前を通る。ドアが開き、彼女が出てくる。

「おはよう、佐倉さん」

自然に声をかける。彼女の視線が、私に落ちる。一瞬、昨夜のそれと同じ、鋭い光が宿る。私の指先を、なぞるように。息が、わずかに乱れる。

「おはよう。今日も、よろしくね」

彼女の声は穏やかだ。だが、その瞳の奥に、かすかな熱が灯っているように見えた。ドアが閉まる瞬間、互いの視線が絡みつく。オフィスの朝の光が、彼女の輪郭を柔らかく照らす中、私はデスクへ戻る足を、止めたくなる衝動に駆られる。

この疼きは、どこへ向かうのだろう。沈黙の向こうに、何が待っているのか。

(約1950字)