神崎結維

人妻の視線、夫越しの疼き(第2話)

この作品は18歳未満の方の閲覧を禁止します。フィクションであり、現実の人物・事件とは一切関係ありません。

## 第2話:遅れる夫のワイン、掠める指先

 数日後の平日夜、拓也は再び健一の住むアパートメントを訪れていた。あの夕食会の夜から、遥の視線と指先の感触が、胸の奥に薄く残った霧のようにまとわりついていた。健一から「忘れ物の財布を預かってるから、取りに来いよ」と連絡が入り、仕事帰りに寄ったのだ。雨は止んでいたが、空気はまだ湿り気を帯び、街灯がアスファルトに長い影を落としている。ドアベルを押すと、開いたのは遥の姿だった。

 「拓也さん……お疲れ様です。健一はまだ帰ってなくて、もう少し遅くなるそうです」。遥の声は柔らかく、しかしどこか予期せぬ響きを孕んでいた。淡いベージュのブラウスに、膝丈のスカート。肩に落ちる黒髪が、室内の柔らかな照明に照らされ、微かな艶を浮かべている。彼女の瞳は、あの夜と同じく、深く澄んで拓也を捉えた。絡みつくような熱が、瞬時に空気に溶け込む。

 拓也は玄関で靴を脱ぎながら、胸のざわつきを抑えた。「すみません、急に来て。健一の連絡で……」。リビングに入ると、テーブルには一本のワインボトルとグラスが置かれていた。遥がキッチンから戻り、穏やかに微笑む。「せっかくですし、少しお待ちいただけますか? ワイン、開けましょうか。健一も遅い夜は、よくこうして一人で飲んでるんです」。彼女の言葉に、夫の影がちらりと浮かぶのに、その微笑みは拓也だけを誘うように柔らかかった。

 ソファに腰を下ろすと、遥がグラスにワインを注いだ。深紅の液体が揺れ、室内に甘い果実の香りが広がる。窓の外は静かな夜の闇で、遠くの車の音がかすかに聞こえるだけ。拓也はグラスを手に取り、一口含む。アルコールが体を温め、あの夕食会の余韻を呼び覚ます。遥は向かいのソファに座り、膝を揃えてグラスを傾けた。肩が僅かに落ち、ブラウスが肌に沿う曲線を浮かび上がらせる。

 「拓也さんのお仕事は、忙しいんですか? この前、健一が話してましたけど」。遥の声が、静かな室内に溶け込む。日常の話題から始まる会話は、自然に互いの暮らしを辿る。拓也は仕事の単調さを、遥は夫の残業続きの日常を、淡々と語った。だが、言葉の合間に、視線が絡み合う。遥の視線は、グラスの縁から拓也の顔へ、ゆっくりと滑り落ちる。あの夜の続きのように、執拗で、柔らかく。

 ワインが二杯目に差し掛かると、空気が微かに重くなった。遥の頰に、アルコールの紅潮が差す。彼女の唇がグラスに触れるたび、拓也の視線は無意識にそこに落ちた。柔らかく湿った輪郭が、照明に光り、微かな息づかいを湛えている。遥は気づいているのか、視線を逸らさず、静かに微笑む。「健一は、いつも遅くて……一人で待つ時間が、長いんです」。声に、僅かな震えが混じる。夫の不在が、二人だけの空間を濃くする。

 話題が深まるにつれ、遥の言葉に影が差した。「結婚して三年。健一は優しいんですけど……最近、なんだか」。途中で言葉を切り、グラスを眺める。拓也は黙って聞き、胸の奥で疼きが広がる。あの指先の感触が、蘇るように肌を震わせる。ソファの距離が、いつしか縮まっていた。肩が触れ合うほどの近さで、遥の体温が伝わってくる。甘いワインの香りと、彼女の微かな香水が混じり、息苦しいほどの熱を生む。

 「夫には、言えない話なんです」。遥の囁きが、拓也の耳に落ちた。声は低く、震えを帯び、肩が僅かに寄り添う。彼女の瞳は、夫の影を映しつつ、拓也の顔を捉えて離さない。曖昧な沈黙が訪れる。言葉はない。ただ、互いの視線が絡みつき、空気に甘い疼きを溶かしていく。拓也のグラスを持つ手が震え、遥の視線がそこに落ちる。境界が、溶けそうで溶けないギリギリのところで、揺らぐ。

 遥の吐息が、拓也の首筋をくすぐるように近づく。彼女の唇が、僅かに開き、ワインの残り香を運ぶ。拓也は視線を落とし、彼女の指に目を奪われた。細く、白い指がグラスを握り、微かに震えている。あの夕食会の感触を思い起こさせるように、遥の指が、ゆっくりとテーブルを滑り、拓也の手の甲を掠めた。偶然か、意図か。温かく、柔らかな感触が、電流のように神経を駆け巡る。

 その瞬間、遥の瞳に曖昧な揺らぎが宿った。夫の帰宅を待つ妻の姿でありながら、拓也だけに向けられた熱。彼女は指を引かず、僅かに留め、微笑む。「……ごめんなさい」。言葉は囁きのように小さく、しかしその奥に、抑えきれない疼きが滲む。拓也の胸はざわつき、境界が揺らぎ始める。この熱は、ただの錯覚か。それとも、夫の影を越えて、二人だけのものか。

 遠くでドアの鍵が回る音がした。健一の帰宅だ。遥は自然に指を離し、グラスを置いて立ち上がる。会話は日常に戻るが、拓也の肌には、あの掠めた感触が残った。帰路の夜道、雨の気配が再び近づく中、遥の指の温もりと、曖昧な囁きの余韻が、胸を焦がす。境界が、静かに溶け始めていた。

(第2話 終わり/約2050字)

 遥の指が拓也の手を掠め、境界が揺らぎ始める──次話へ続く。