久我涼一

湯煙の人妻、近づく吐息(第1話)

この作品は18歳未満の方の閲覧を禁止します。フィクションであり、現実の人物・事件とは一切関係ありません。

## 第1話:チェックインの視線、湯煙の予感

 秋の終わり、平日を狙った一人旅だった。45歳の俺、佐藤健一は、都心の喧騒から逃れるように、この山奥の静かな温泉宿を選んだ。会社での長年のしがらみ、妻との淡々とした日常。すべてが重くのしかかり、肩は凝り固まり、心まで澱んでいた。運転を降り、冷たい風が頰を撫でるロビーに足を踏み入れると、フロントの女性が穏やかに迎えてくれた。

 チェックインの手続きを待つ間、隣に並んだ女性に目が留まった。38歳くらいだろうか。黒髪を緩くまとめ、淡いベージュのコートを羽織ったその姿は、洗練されていて、しかしどこか疲れた影を帯びていた。名札のようなものが、彼女の鞄に揺れていたわけではない。ただ、名札など必要ない。彼女の存在自体が、静かな宿の空気に溶け込みながらも、微かな熱を放っていた。

 「ご予約の佐藤様ですね。お部屋は露天風呂付きの離れです。どうぞおくつろぎください」

 フロントの声に頷き、鍵を受け取る。ふと視線を上げると、彼女もこちらを見ていた。目が合った瞬間、互いに軽く会釈を交わした。彼女の瞳は深く、夕暮れの空のように少し曇っていた。夫婦で来ているようだったが、夫の姿は見えない。後で知ったことだが、彼女の夫は別室で仕事に追われているらしい。出張の合間を縫っての温泉旅行。俺と同じく、日常の隙間を埋めるような旅だ。

 部屋に荷物を置き、湯に浸かる前に夕食の時間となった。宿の食堂は、畳敷きの落ち着いた空間。窓の外はすでに闇が落ち、遠くの山々がぼんやりと浮かぶ。俺の席の隣に、彼女――美香と名乗った女性が座った。偶然か、宿の配慮か。夫はまだ部屋にこもりきりで、来ないそうだ。

 「平日なのに、こんな静かな宿でよかったわ。普段は賑やかすぎて、ゆっくり休めないのよね」

 美香の声は柔らかく、グラスに注がれた地酒を傾けながら、俺に微笑んだ。38歳の人妻。結婚15年目、子供はいないという。夫は大手企業の部長で、帰宅はいつも深夜。会話は自然と、互いの日常の孤独へと流れていった。

 「私たち夫婦も、最近は会話が減っちゃって。温泉に来たのは久しぶりよ。でも、夫は仕事のメールをチェックしてるみたい」

 彼女の指が、箸を置く仕草で微かに震えた。俺も同じだ。妻とは同居しているのに、互いの体温すら感じなくなっていた。45歳、部長代理の俺は、部下の愚痴を聞き、数字を追いかける日々。酒が進むにつれ、言葉の端々に、抑えきれない渇望が滲み出た。

 「わかるよ。俺も、妻とはただ一緒にいるだけ。熱いものが、どこかで冷めちまったんだろうな」

 互いの視線が絡み、食堂の柔らかな灯りが彼女の肌を照らす。頰が少し赤らみ、湯上がりのような湿り気を帯びていた。夕食を終え、別れる頃には、すでに空気の中に微かな緊張が漂っていた。

 部屋に戻り、露天風呂付きの浴室で体を沈める。熱い湯が筋肉の芯まで染み渡り、ようやく息が楽になった。妻に短いメールを送り、ベッドに横になるが、眠れなかった。美香の瞳が、頭から離れない。あの柔らかな笑み、言葉の裏に隠れた寂しさ。45歳の男が、こんなところで心を揺らすとは。

 深夜、時計は1時を回っていた。宿の静寂が、耳に心地よい。もう一度、露天風呂に行ってみるか。部屋の私的な露天だが、共有の大きな露天風呂も気になっていた。平日深夜なら、誰もいないはずだ。浴衣を羽織り、足音を忍ばせて外へ出る。石畳の道を進み、湯気の立ち上る露天風呂の入口に着いた。

 扉を開けると、湿った空気が肌を包む。月明かりが湯船を照らし、静かな湯音だけが響く。誰もいない……と思いきや、奥の湯煙の向こうに、ぼんやりとしたシルエットが揺れていた。女の輪郭。黒髪が濡れて肩に張り付き、湯に浮かぶ白い肌。美香だ。

 心臓が、どくんと鳴った。彼女はこちらに気づいていないのか、ゆっくりと湯をかき回す。湯煙が二人の間を隔て、視界を曖昧にぼかす。そのシルエットが、俺の胸に甘い疼きを呼び起こす。声をかけようか、それとも……。

 足が、勝手に一歩進み出していた。

(第2話へ続く)