久我涼一

壁越しの喘ぎ、覗きの共有(第1話)

この作品は18歳未満の方の閲覧を禁止します。フィクションであり、現実の人物・事件とは一切関係ありません。

## 第1話:壁の隙間、甘い吐息の始まり

 平日夜のマンションは、いつものように静かだった。拓也は四十五歳の独身サラリーマンで、都心の古い集合住宅の一室に一人で暮らしている。会社では中間管理職として、部下のミスを尻拭いして、上司の無茶な要求に耐え、残業を繰り返す日々。家に帰れば、冷えたビール一本とインスタントの夕食。窓から見える街灯の淡い光が、唯一の慰めのような夜だった。

 隣室の住人は、最近引っ越してきた二十八歳の女性、遥だと名札から知った。OLらしいスーツ姿をエレベーターでちらりと見たことがある。細身の体躯に、黒髪を後ろで軽くまとめ、化粧の薄い顔立ち。特別に目立つタイプではないが、通りすがりの視線を自然に引きつける何かがあった。拓也はそんな彼女の存在を、ただの近所の住人として意識していた。少なくとも、最初は。

 きっかけは、ある雨の夜だった。拓也がベッドに横になり、いつものように天井を見つめていると、壁の向こうから微かな音が聞こえてきた。最初は気のせいかと思った。古いマンションの壁は薄く、隣の物音が漏れ聞こえることは珍しくなかった。だが、その夜の音は違った。くぐもった、息づかいのような。ゆっくりと間を置いて、甘く湿った吐息が、壁を越えて忍び寄る。

 好奇心から、拓也は耳を澄ませた。音は次第に明確になった。布ずれの擦れ、ベッドのきしみ。そして、抑えきれないような、細い喘ぎ声。「んっ……あ……」低く、喉の奥から絞り出されるような響き。遥の声だ、と直感した。彼女は一人で、夜の孤独を紛らわせるように、体を慰めている。指の動きが想像できた。ゆっくりと円を描き、熱を溜めていく。喘ぎは次第に熱を帯び、「はあっ……んん……」と、唇を噛むような切なさが加わる。

 拓也の心臓が、早鐘のように鳴り始めた。こんな音を、壁越しに聞くなど、想像したこともなかった。現実の重みに疲弊した日常で、これは異物だった。禁断の、秘密の調べ。興奮が体を駆け巡り、下腹部に熱が集まるのを抑えきれなかった。彼はそっとスマホを取り出し、録音アプリを起動した。壁に耳を押し当て、息を潜めてその声を捉える。十数分にわたる、遥の独り遊びの軌跡。頂点に達する直前の、震えるような長い吐息。「あっ……い、いく……」そして、静寂。

 その夜、拓也は何度も録音を再生した。ヘッドホンを耳に当て、目を閉じて想像を膨らませる。遥の白い肌、微かに汗ばんだ首筋、指先が秘部を這う様子。声のニュアンス一つ一つが、鮮やかに彼女の姿を浮かび上がらせる。甘く、切なく、抑えきれない欲情の響き。拓也自身も、声を聞きながら手を動かした。射精の瞬間、遥の最後の喘ぎが重なるように、頂点に達した。あの余韻は、ビールの酔いなど比べものにならない深い充足感だった。

 それからというもの、拓也の夜は変わった。毎晩、帰宅後すぐにベッドに横になり、壁に耳を寄せる。遥のルーチンは意外に規則正しかった。平日夜九時頃、シャワーの音が聞こえ、間もなくベッドのきしみが始まる。時には短く、時には長く。喘ぎのバリエーションも増えていった。ある夜は、ゆっくりとした指使いで低くうめく。「ふぅ……ん……もっと……」別の夜は、急き立てるように速く、「あんっ、あっ、だめぇ……」と声を漏らす。拓也はすべてを録音した。スマホのメモリに、十数ファイルが溜まっていく。

 ただ聞くだけでは物足りなくなり、彼は壁に小さな隙間を探した。古い建物の壁紙が剥がれかけた箇所に、針で慎重に穴を開ける。直径一ミリほどの、覗き見るには十分な穴。暗闇に慣れた目で、そこから隣室を覗く。遥の姿が、ぼんやりと見えた。薄暗いスタンドライトの下、ベッドに横たわる彼女。白いキャミソールが捲れ上がり、下着をずらして指を滑らせる。乳房の柔らかな膨らみ、腰の微かなうねり。喘ぎ声が、視覚とともに迫ってくる。「はあっ……あ、感じる……」その瞬間、拓也の欲望は爆発した。録音しながら、自分の手を動かす。彼女の声に同期するように、体が震える。

 現実の日常は変わらず重かった。朝の満員電車、午後の会議での苛立ち、部下の報告書のミス。だが、夜のこの時間だけが、拓也の救いだった。遥の喘ぎは、抑えきれない本能の証。彼女もまた、三十歳目前の孤独を抱え、こんな方法で欲求を解放している。血縁などない、ただの隣人同士。それが余計に、背徳の甘さを増幅させた。録音を繰り返すうち、拓也は彼女の好みを把握し始めた。ゆっくりとした前戯の喘ぎが好きか、それとも急な頂点か。声の震え方から、彼女の興奮度を読み取る。まるで、共有の秘密のように。

 ある夜、いつものように穴から覗き、録音を始めた。遥はベッドに深く沈み、目を閉じて指を動かしている。「んんっ……あ、いい……」声がいつもより大きく、熱っぽい。拓也の息が荒くなり、手が自然に下へ。彼女の腰が浮き上がり、頂点が近い。すると、突然、遥の目が開いた。こちらを向いた。暗闇の向こう、壁の隙間を、じっと見つめるような視線。気のせいか? だが、その瞳に、確かな光があった。好奇か、疑念か、それとも……。

 拓也は息を飲んだ。スマホの録音ランプが点滅する中、体が凍りつく。彼女は知っているのか? この視線は、偶然か、それとも……。

(第2話へ続く)

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