篠原美琴

湯煙の制服、触れぬ熱(第1話)

この作品は18歳未満の方の閲覧を禁止します。フィクションであり、現実の人物・事件とは一切関係ありません。

## 第1話:夕霧の受付、揺らぐ後影

 平日、夕暮れの山道を抜け、ようやくその温泉宿に辿り着いた。
 車を降りると、湿った空気が頰を撫で、遠くで湯気の立ち上る音が微かに響く。疲労が体に染みつき、肩が重い。仕事の重圧から逃れるように選んだこの場所は、辺鄙な山里にひっそりと佇み、街灯の代わりに提灯の柔らかな光が石畳を照らしていた。
 玄関の引き戸を押すと、木の匂いが鼻をくすぐる。カウンターの向こうに、彼女がいた。

 二十五歳の受付嬢。名札に「佐倉」とある。柔らかなベージュの制服が、細身の体に沿うように着られ、襟元がわずかに開いて白い肌を覗かせる。癒し系の柔和な顔立ちで、長い黒髪を後ろで軽くまとめ、穏やかな目がこちらを向いた瞬間、視線が絡まった。
 「いらっしゃいませ。お疲れのようですね。お名前を……」
 声は低く、抑揚を抑えたもの。言葉は必要最小限で、余計な挨拶を省く。こちらも疲れからか、ただ予約名を告げるだけだった。彼女は黙って帳簿に目を落とし、鍵を差し出す。指先が白く、細い。

 部屋への案内を申し出る彼女の後ろ姿に、視線が自然と落ちる。制服の生地が歩くたび微かに擦れ、腰のラインを浮かび上がらせる。廊下は薄暗く、畳の感触が足裏に伝わる。言葉はもう交わさない。沈黙が、二人の間にゆっくりと広がった。
 その沈黙が、妙に肌を意識させる。彼女の背中がすぐそこにあり、わずかな距離。息づかいが聞こえそうなほど近く、しかし触れられない。こちらの視線を感じ取っているのか、彼女の歩調が僅かに緩やかになる。肩が、ほんの少し上下した。

 途中、湯処の前を通る。扉が微かに開き、湯気が廊下に漏れ出ていた。湿った熱気が足元を這い上がり、彼女の制服の裾を揺らす。後ろ姿が湯気の向こうにぼやけ、輪郭が柔らかく溶けるように見えた。髪の毛先が湿気でわずかに湿って、肌に張り付く。
 息が、乱れた。こちらのものか、彼女のものか。沈黙の中で、胸の奥が熱く疼く。視線を逸らせばいいのに、目が離せない。制服の布地が湯気に濡れ、淡く透ける気配。彼女は振り返らず、ただ前を向いて歩き続ける。

 部屋の襖を開け、鍵を渡す時、ようやく視線が交錯した。彼女の瞳に、湯気の湿気が映り、わずかに揺れる。唇が乾いているのか、舌先で湿らせる仕草。言葉はない。ただ、鍵を受け取る指が、互いに触れぬ距離で止まる。空気が、濃くなる。
 「ゆっくりお休みください。何かありましたら、いつでも……」
 囁くような声。部屋に入る背を、彼女は静かに見送った。襖が閉まる瞬間、廊下の向こうで足音が遠ざかる。湯気の残り香が、鼻腔に残る。

 湯気の向こうに、彼女の後影がまだ揺れている気がした。息が、わずかに乱れたまま、夜が深まっていく。

(約1950字)

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