久我涼一

取引先部長の抑えきれない視線(第2話)

この作品は18歳未満の方の閲覧を禁止します。フィクションであり、現実の人物・事件とは一切関係ありません。

## 第2話:打ち合わせの隙間に忍び寄る熱

 数日後の平日夕暮れ、藤原浩二は再び取引先のビルに足を踏み入れた。高橋美佐子の名刺をポケットに忍ばせ、胸の奥に残る疼きを抑えながらエレベーターに乗り込む。外は雨がぱらつき、街灯の光がガラス窓に滲んでいた。42歳の営業マンとして、こうしたルーチンは日常のはずだったが、今日は違う。あの視線が、頭から離れない。

 会議室に入ると、美佐子はすでに席に着いていた。黒のブラウスにグレーのスカート、眼鏡の奥の瞳が資料に注がれている。肩のラインがわずかに緩み、前回より親しげな空気が漂う。

「藤原さん、お疲れ様です。持ち帰りの条件、こちらで調整しました。ご覧ください」

 美佐子の声は変わらず低く落ち着いていたが、資料を差し出す指先が、テーブルの上で軽く止まる。浩二はノートパソコンを広げ、画面を共有する。単価の微調整と納期の緩和。交渉は前回よりスムーズに進んだ。数字を突き合わせる合間に、彼女の視線が浩二の顔に落ちる。プロフェッショナルなやり取りの中で、互いの息づかいが微かに混じり合う。

 一時間ほどで本題が一段落し、美佐子がコーヒーのトレイを部屋に運んできた。平日遅めの時間帯、オフィスの廊下は静かで、他の社員の気配もない。

「少し休憩を。ブラックでいいですか?」

 カップを置く仕草に、浩二の目が引き寄せられる。細い指がカップの縁をなぞり、湯気が立ち上る。彼女が自分の分を口に運ぶ瞬間、唇が湿り、喉元が小さく動く。浩二は無意識に自分の膝を握りしめた。35歳のキャリアウーマンとして、数々のプレッシャーを背負う彼女の、そんなありふれた動作に、胸の奥が熱くなる。

「高橋部長、いつもこの時間までお一人で?」

 浩二が何気なく尋ねると、美佐子はカップを置き、眼鏡を軽く押し上げた。窓の外、雨がアスファルトを叩く音が室内に響く。

「ええ、部長ともなると、帰宅は遅くなります。家庭の時間も、キャリアの重圧に削られるんですよ。あなたも、営業の現場で同じでしょう?」

 彼女の言葉に、浩二は頷いた。妻との会話が減り、帰宅後の静かな食卓。42歳の安定した日常が、かえって重荷に感じる瞬間を思い浮かべる。血縁のない、ただの取引先の女性に、そんな本音を漏らす自分に気づき、浩二の視線が彼女の手に落ちた。結婚指輪が、蛍光灯の下で控えめに光る。

「確かに。数字を追う毎日で、家族との距離が……。でも、高橋部長のような方が支えてくれると、心強いです」

 美佐子が小さく笑った。頰に影が落ち、瞳が柔らかく細まる。その表情に、浩二の喉が乾く。休憩は短く、再び交渉に戻ったが、空気は前回より親密だった。彼女が資料をめくるたび、ページの音が耳に残り、ブラウス越しに肩のラインが揺れる。浩二の視線は、事務的に装いつつ、彼女の首筋に、細い腕に、何度も絡みつく。

 ミーティング終了後、美佐子が立ち上がり、名刺入れをしまう。浩二も荷物をまとめ、エレベーターに向かう。廊下の足音が重なり、互いの気配が近づく。

「次回は来週、同じ時間で。詳細、詰めていきましょう」

 美佐子の言葉に浩二が頷くと、エレベーターのドアが開いた。狭い箱の中で、二人は並んで立つ。雨の湿気が外から漂い、静寂が訪れる。浩二の心臓が、わずかに速くなる。彼女の香水の匂い、かすかな柑橘系のものが、鼻先をかすめる。

 ビルを出て、駅までの路地を歩く。平日夜の街は人影少なく、街灯が濡れた地面を照らす。美佐子が傘を差し、浩二が並んで歩く形になった。自然と、仕事の延長のような会話が続く。

「藤原さん、御社のプロジェクト、成功すれば私の部署も助かります。プレッシャー、共有できる相手がいると、心が軽くなりますね」

 彼女の横顔が、街灯に照らされ、柔らかく浮かぶ。浩二は、キャリアの重圧を語る彼女の声に、自分の日常の隙間を重ねる。妻の不在の夜、仕事の疲れを一人で抱える時間。美佐子の落ち着いた仕草――髪を耳にかける動作、歩くリズム――に、抑えきれない衝動がゆっくり膨らむ。テーブルの下で固くなった膝が、今、路地の湿った空気に触れて熱い。

 駅の改札前で、美佐子が立ち止まった。電車が別方向だ。

「それでは、また来週。気をつけてお帰りください」

 名刺を交換するふりで、手が触れた。彼女の指先が、浩二の掌に軽く重なる。柔らかく、温かい感触が、一瞬長く残る。美佐子が顔を上げ、視線を交わす。眼鏡の奥の瞳が、暗がりで深く輝く。プロフェッショナルな仮面の下で、理性の揺らぎが予感される。浩二の息が止まり、彼女の唇が微かに開く。

 美佐子が先に改札へ向かい、浩二は振り返らずに自分の電車に乗り込んだ。車窓に映る自分の顔が、熱を帯びている。ポケットの名刺を握りしめ、妻の待つ自宅へ向かう道中、指先の感触が蘇る。あの視線。あの温もり。次回の打ち合わせが、残業後の二人きりの夜にずれ込む予感が、浩二の肌を甘く疼かせる。抑えきれない熱が、ゆっくりと膨らみ始めていた。

(第2話 終わり)