久我涼一

取引先部長の抑えきれない視線(第1話)

この作品は18歳未満の方の閲覧を禁止します。フィクションであり、現実の人物・事件とは一切関係ありません。

## 第1話:交渉卓上の微かな揺らぎ

 平日の夕暮れ、街の喧騒がオフィス街の窓ガラスに響く頃、藤原浩二は取引先のエレベーターに乗り込んだ。42歳の営業マンとして、数えきれないほどのミーティングをこなしてきたが、今日のこの訪問は少し特別だった。新規プロジェクトの条件交渉。相手は業界でも評判の厳しい部長だと聞いていた。

 会議室のドアが開くと、室内はすでに薄暗く、蛍光灯の白い光がテーブルの上に落ちていた。長テーブルの向かい側に、ひとりの女性が座っていた。高橋美佐子部長、35歳。事前の資料で知っていたが、実物は想像以上に洗練されていた。黒のテーラードスーツが細身の体躯を包み、肩まで落ちるストレートの黒髪が、わずかに頰にかかる。眼鏡の奥の瞳は鋭く、資料をめくる指先は細く、しかし力強い。

「藤原さんですね。時間通りで助かります。では、早速始めましょう」

 美佐子の声は低く、落ち着いたトーンだった。プロフェッショナルそのもの。浩二は席に着き、ノートパソコンを開いた。画面に映るのは、自社の提案書。単価の見直しと納期の短縮を求められるのはわかっていたが、彼女の視線が資料に落ちる瞬間、浩二の胸に微かな緊張が走った。

 交渉は予想通り、厳しかった。美佐子は一つ一つの数字を細かく突き、条件の緩和を一切許さない。テーブルの上で資料を指でなぞる仕草が、浩二の目を引いた。爪は短く整えられ、無色。だが、その指の動きに、事務的な冷たさ以上の何かが潜んでいるように感じた。

「この単価では、御社の利益率が15%を超えています。私どもの予算では対応できません。10%以内に収めていただけますか?」

 美佐子が顔を上げ、浩二の目を見つめた。その瞬間、二人の視線が絡まった。ほんの一秒、しかし浩二には永遠のように思えた。彼女の瞳は黒く深く、眼鏡の縁がわずかに光を反射する。プロフェッショナルな仮面の下で、何かが揺らいでいる。浩二は息を潜め、視線を逸らさなかった。心臓の鼓動が、わずかに速くなる。

「それは厳しい条件です。高橋部長。ですが、御社の長期的なパートナーシップを考えれば……」

 浩二の言葉を遮るように、美佐子が再び資料に目を落とした。だが、その頰に、ほんのわずかな赤みが差したように見えた。錯覚か。いや、室内の空気が、微かに重くなった気がした。テーブルの下で、浩二の膝が無意識に固くなる。彼女の唇が、言葉を選ぶようにゆっくりと動く。細い首筋に、血管が薄く浮かぶ。

 交渉は一進一退を繰り返した。美佐子は容赦なく数字を削り、浩二は粘り強く反論する。だが、その合間に交わされる視線が、徐々に熱を帯びていく。彼女がペンを握りしめる手。インクの先が紙を突く音。浩二の喉が、乾く。35歳のキャリアウーマンとして、数々の男たちを相手に鍛え抜かれたはずの彼女が、なぜか今、浩二の視線に晒されていることに気づいているようだった。

「わかりました。この条件で一旦持ち帰ります。ただ、次回までに詳細を詰めていただけますか?」

 美佐子がようやく口にした妥協の言葉に、浩二は頷いた。ミーティングは終了。立ち上がる彼女のスーツの裾が、軽く揺れる。背筋が伸び、ヒールの音がカーペットに吸い込まれるように響く。浩二も名刺入れから自分のカードを差し出し、受け取った彼女の名刺をポケットにしまう。その瞬間、指先がわずかに触れた。柔らかく、温かい感触。美佐子の視線が、再び浩二を捉える。一瞬の沈黙。彼女の唇が、微かに弧を描いたように見えた。

「ご連絡お待ちしています、藤原さん」

 エレベーターで別れ、浩二は取引先のビルを後にした。外はすでに街灯が灯り始め、雨上がりのアスファルトが湿った光を放っている。電車に揺られ、帰宅する道中、ポケットの中の名刺を無意識に取り出した。高橋美佐子。部署名、連絡先。シンプルなデザイン。だが、指でなぞる感触に、会議室の空気が蘇る。あの視線。あの微かな熱。

 自宅のマンションに着き、シャツを脱いでベッドに横になる。妻はまだ帰宅前。静かな室内で、浩二は天井を見つめた。42歳の男として、家庭があり、仕事があり、安定した日常がある。なのに、心の奥に疼きが残る。美佐子の瞳の奥に潜む何か。プロフェッショナルな仮面の下で、ゆっくりと膨らむ熱。抑えきれない視線が、浩二の肌を熱くさせる。

 名刺を握りしめたまま、浩二は目を閉じた。次回の打ち合わせが、ただの業務以上のものになる予感がした。あの視線が、再び絡みつく日を。

(第1話 終わり)

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