篠原美琴

取引先の視線が絡むストッキング(第1話)

この作品は18歳未満の方の閲覧を禁止します。フィクションであり、現実の人物・事件とは一切関係ありません。

## 第1話:会議室に落ちる視線

 平日の夕暮れ、街の喧騒が窓ガラスに淡く反射する頃、私は取引先のオフィスビルを訪れた。三十代半ばの私、営業部の佐倉美咲は、いつもの黒いタイトスカートに薄いブラウスを纏い、足元は黒いストッキングに細いヒール。鏡で確認した姿は、仕事の延長線上にあるはずのものだった。エレベーターの扉が開くと、廊下の空気はひんやりと静かで、残業の気配がわずかに漂う。受付で名刺を渡し、拓也氏の名を告げると、女性社員の視線が一瞬、私の脚に落ちた。気のせいだろうか。

 拓也氏は三十代後半の担当者で、数回の電話とメールで顔を合わせたことがない。資料の打ち合わせのため、今日は直接対面だ。案内された会議室はガラス張りで、外の街灯がぼんやりと差し込み、テーブルの上に影を落とす。ドアが開き、彼が入ってきた。背の高い体躯に、くたびれたネクタイを緩めたシャツ姿。目が合うと、軽く頭を下げ、席に着く。

「佐倉さん、はじめまして。井上拓也です。お待たせしました」

 声は低く、抑揚を抑えたものだった。資料を広げ、数字を指し示しながら話が始まる。売上予測、納期の調整。新規取引の条件を詰めるはずの時間。だが、すぐに気づいた。彼の視線が、テーブルの下、私の脚に落ちるのを感じた。

 最初は偶然かと思った。ストッキングの光沢が蛍光灯に反射し、黒い網目が淡く浮かぶ。膝を揃え、姿勢を正す私を、彼の瞳が追う。言葉は途切れず続くのに、息がわずかに乱れる。資料のページをめくる指が、一瞬、止まった。

「……この条件で進められそうですか」

 私の問いかけに、彼は視線を上げ、頷く。だが、再び。テーブルの縁から、視線が滑り落ちる。ストッキングの生地が、肌に張り付く感触を、私は自覚する。薄いナイロンの下で、ふくらはぎの筋が微かに緊張する。なぜか、熱が這い上がる。足首から、膝裏へ。触れられてもいないのに。

 沈黙が、訪れた。数字の確認を挟む間、互いの息づかいが部屋に満ちる。彼の瞳は逸らそうとするのに、戻る。黒いストッキングのラインを、なぞるように。私の心臓が、静かに速まる。三十代の体は、こんな視線一つで、肌の奥が疼き始める。ブラウスの中で、胸の谷間が息に合わせて上下するのを、彼は知らないはずだ。

 私は足を軽く組み替える。ストッキングの擦れる音が、かすかに響く。膝が重なり、裾がわずかにずれる。彼の指が、ペンを握りしめ、震える。視線を逸らし、窓の外へ。街灯の光が、彼の横顔を照らす。夕暮れの空は、深い藍色に染まり始めていた。

「井上さん、どうなさいましたか」

 穏やかに尋ねる私の声に、彼は慌てて視線を戻す。頰に、薄い赤みが差す。

「いえ、大丈夫です。失礼しました」

 言葉は丁寧だが、息が浅い。テーブルの下で、私の脚は動かない。ストッキングの表面が、空気の流れに敏感に反応する。熱が、じわりと広がる。互いの距離は、一メートルほど。触れられない、触れてはいけない距離。なのに、視線が絡みつくたび、空気が重くなる。

 資料を閉じ、握手を交わす時、彼の掌は温かく、わずかに湿っていた。指先が、私の手に触れる一瞬、震えが伝わる。ドアまで見送られ、廊下に出る。背後で、ドアが静かに閉まる音。

 エレベーターに乗り込み、ボタンを押す。鏡に映る自分の姿。ストッキングに、微かな皺が寄っている。熱が、引かない。次回の訪問が、待ち遠しくなる理由を、私はまだ、言葉にできなかった。

(つづく)