篠原美琴

機上のメイド、息づまる距離(第2話)

この作品は18歳未満の方の閲覧を禁止します。フィクションであり、現実の人物・事件とは一切関係ありません。

## 第2話:ラウンジのワイン、揺らぐ吐息

 ホテルのロビーは、雨上がりの湿った空気を纏い、静かに息づいていた。平日の夜遅く、街灯の淡い光がガラス窓から差し込み、大理石の床に長い影を落とす。健一はチェックインを済ませ、エレベーターを待つ間、胸の疼きを抑えきれなかった。あの機内の距離、指先の擦れ。遥の瞳が、脳裏に残る。扉が開く音に、振り返る。誰もいない。ただ、足音の反響だけ。

 ラウンジへ足を運ぶ。薄暗い照明の下、革張りのソファが並び、カウンターでバーテンダーがグラスを磨く音が響く。ジャズのピアノが、遠く低く流れる。客はまばら。スーツ姿の男が一人、煙草の煙を吐き出す。健一は隅のテーブルを選び、シートに沈む。ウイスキーを注文し、窓外の闇を見つめる。濡れた街路樹が、風に揺れる。

 グラスが運ばれてくる。視線を上げると、そこに遥がいた。私服姿。オフの時間だ。黒のタイトなニットが肩に沿い、膝下のスカートが細い脚を覆う。機内の制服とは違う、素の柔らかさ。髪を軽くまとめ、耳元に銀のピアスが光る。二十八歳の肌は、照明の下で滑らかに輝く。彼女はトレイを置き、微笑を浮かべる。控えめで、唇の端だけ。

「こんばんは、健一様。ホテルでお待ちしておりました。何かお飲み物をお持ちします」

 声は機内と同じ、低く抑えたもの。奉仕の余韻が、言葉に滲む。健一は無言で頷く。喉が、再び乾く。彼女はカウンターへ行き、ボトルを手に戻る。赤ワイン。二つのグラスに、ゆっくり注ぐ。液体が揺れ、深紅の光を放つ。彼女の手が、僅かに震える。グラスの縁に、指先が触れる。爪の透明な光沢が、機内で見たまま。

 グラスを差し出す。健一の手が伸びる。触れそうで、触れない。空気の層が、再び張り詰める。遥の息が、かすかに漏れる。温かく、甘い。彼女の瞳が、こちらを映す。黒く、深く。機内の沈黙が、ここに続く。健一はグラスを受け取り、一口含む。ワインの酸味が、舌に広がる。胸の熱が、じわりと蘇る。

 遥は向かいのソファに腰を下ろす。許可を求めぬまま、自然に。膝を揃え、姿勢を正す。ニットの生地が、呼吸に合わせて微かに動く。胸元のラインが、照明に浮かぶ。視線が絡む。互いの瞳が、留まる。言葉はない。ラウンジの空気が、重くなる。ジャズの音が、遠くに溶ける。バーテンダーの氷の音だけが、時折響く。

 健一の肌が、熱を持つ。なぜだ。彼女はただ、座っている。ワインを口に運ぶ仕草。唇がグラスに触れ、僅かに湿る。喉元が、滑るように動く。息の間が、わずかに乱れる。遥の視線が、下がる。睫毛の影が、頰に落ちる。沈黙が、二人を包む。一メートルほどの距離。触れられない、壁。

 ふと、遥が口を開く。声は囁きに近い。

「機内のお飲み物、いかがでしたか。ご満足いただけましたか」

 言葉の端に、息が混じる。健一はグラスを回し、答える。

「完璧だった。君のサービスが」

 短く、それだけ。遥の頰が、薄く紅潮する。照明のせいか。彼女はグラスを置き、再び注ぐ。ボトルの首を握る手が、震える。ワインが、グラスに落ちる音。ぽたり、と。滴が、テーブルの木目に広がる。指先が、拭き取ろうと動く。健一の視線が、そこに注がれる。白い肌、細い血管の青み。息が、途切れる。

 互いの瞳が、再び絡む。遥の唇が、僅かに開く。吐息が、テーブルを越えて届く。温かく、湿った空気。健一の胸に、渇望が疼き始める。触れたい。だが、触れられない。この距離が、甘く苛立つ。彼女の膝が、僅かに寄る。スカートの裾が、ソファに沿う。足首のラインが、照明に浮かぶ。ヒールのない素足。肌の柔らかさ。

 沈黙が続く。ワインの香りが、二人の間に満ちる。遥の呼吸が、速まる。胸元が、上下する。ニットの繊維が、微かに擦れる音。健一の指が、グラスを強く握る。関節が白くなる。視線を逸らせぬ。彼女の瞳に、自分の姿が映る。揺るぎない、熱。

 時間が、ゆっくり流れる。ラウンジの客が一人、去る。足音が遠ざかる。ジャズが、次の曲へ。ピアノの単音が、夜の静寂に響く。遥が、立ち上がる。ゆっくりと。

「遅くまで、お時間をいただきました。お部屋へお戻りになりますか」

 言葉に、誘うような響きはない。ただ、奉仕の余韻。健一は頷く。会計を済ませ、共にラウンジを出る。廊下の絨毯が、足音を吸う。エレベーターの扉が開く。狭い箱の中で、再び距離が近づく。一歩分。遥の香りが、漂う。シャンプーの柔らかさ、ワインの残り香。息が、混じり合う。

 遥の部屋は、健一の隣。扉の前で、彼女がキーを使う。カチリ、と音。ドアが開く。振り返る後ろ姿。腰のラインが、スカートに沿う。髪の毛先が、肩に落ちる。瞳が、最後にこちらを映す。揺れが、そこに。

 健一の胸に、衝動が走る。抑えきれぬ。手が、僅かに伸びかける。扉が、ゆっくり閉まり始める。その直前、遥の唇が動く。声にならぬ、息。瞳が、熱く留まる。何かが、変わる。

(第2話 終わり 約1980字)

 次話へ続く