篠原美琴

校長室の視線距離(第2話)

この作品は18歳未満の方の閲覧を禁止します。フィクションであり、現実の人物・事件とは一切関係ありません。

## 第2話:唇に落ちる息遣い

作業は続く。怜子は指を動かし、書類の束を次のページへ移す。五十田の指先が、すぐ隣で静かに紙を押さえていた。触れていない。熱だけが、指の間を伝う。部屋の空調が微かに唸り、夕暮れの光が窓辺で薄れゆく。怜子は視線を落としたまま、息を整える。首筋の疼きが、ゆっくりと胸の奥へ沈む。五十田もまた、言葉を発さず、次の書類に手を伸ばす。二人の肩は、机上でわずかに寄り添う距離を保つ。

数分が過ぎ、怜子は一息つき、ペンを取る。メモを記入する指先が、紙の上で滑る。五十田の視線が、再び動く。今度は、怜子の唇に落ちる。淡く塗られた唇が、夕陽の残光に濡れたように輝く。わずかな湿り気が、息のたびに微かに震える。怜子は気づく。あの視線を。半年の業務で、何度か耳朶や首筋に感じたのと同じ、重み。だが今、唇に。彼女はペンを止めず、冷静を装う。唇を閉じ、息を浅く吐く。心の中で、言葉を探す。業務の確認か、気まずさを紛らわす一言か。だが、沈黙を選ぶ。

部屋に、静けさが深まる。書類のページをめくる音が、ぱらぱらと途切れ途切れに響く。五十田の息遣いが、怜子の耳に届く。かすかで、規則正しい。デスクを挟んだ五十センチの距離で、それなのに、唇のすぐ近くに感じる。怜子の頰が、熱を持つ。内なる疼きが、首筋から鎖骨へ、ゆっくりと這い下りる。視線は触れない。なのに、唇の端が、敏感に反応する。乾いた空気が、肌を撫でるように。

怜子は姿勢を正し、髪を後ろに流す仕草をする。視線を逸らそうと、書類に集中する。だが、五十田の眼鏡のレンズが、光を反射し、怜子の横顔を捉える。唇の輪郭が、視界の端で膨張する。五十田は口を開かない。怜子も沈黙を守る。二人はただ、作業を進める。指が書類を滑らせ、次のページへ。怜子の心臓が、徐々に速まる。唇が、熱を帯びる。息を吸うたび、頰の皮膚が引きつるように疼く。

ふと、五十田の手が動く。一枚の書類を、怜子の手元へ引き寄せる。怜子の指が、同じ紙の端に触れる。偶然。指先が、触れ合う。五十田の指の腹が、怜子の親指の側面に、かすかに重なる。温かく、乾いた感触。電流のように、怜子の腕を伝う。彼女は息を止める。指を引こうとするが、書類が、それを許さない。互いの視線が、上がる。絡む。

五十田の瞳が、怜子の唇を捉えたまま、動かない。眼鏡の奥で、わずかな揺れ。怜子の視線は、五十田の唇へ。薄く引き結ばれた線が、息遣いに微かに開く。部屋の空気が、凝縮する。指先の触れ合いが、熱を増す。怜子の頰が、赤く染まるのを、自覚する。内なる疼きが、全身へ広がる。唇が、震えそうになる。沈黙の中で、互いの息が混じり合う。五十田の指が、ゆっくりと離れる。だが、熱は残る。

怜子は視線を落とす。書類に目を戻す。心臓の鼓動が、耳元で鳴る。作業を再開するが、手がわずかに震える。五十田もまた、淡々とページをめくる。二人は言葉を交わさない。だが、空気が変わった。唇の記憶が、怜子の肌に刻まれる。頰の熱が、首筋へ戻り、胸の奥で疼く。

業務が一段落する頃、窓の外はすっかり暗い。街灯の光が、校舎の影を長く伸ばす。怜子は書類をまとめ、立ち上がる。「お疲れ様です」と、ようやく声が出る。五十田は頷き、「お疲れ」と返す。声は穏やかで、いつも通り。だが、視線が、再び唇に一瞬、留まる。怜子はコートを羽織り、部屋を出る。廊下は静かで、足音だけが響く。

怜子の自室は、校舎の端にあった。教師寮の一室。ドアを閉め、明かりを落とす。ベッドに腰を下ろし、コートを脱ぐ。部屋は薄暗く、窓から夜風が忍び込む。怜子は鏡の前に立ち、唇を見る。指先で、そっと触れる。五十田の指の感触が、蘇る。温かく、乾いた。視線が絡んだ瞬間、息遣いが唇に落ちた感覚。頰が、再び熱を持つ。

彼女はベッドに横たわる。目を閉じる。沈黙の校長室が、脳裏に浮かぶ。指先の触れ合い、視線の重み。唇が、疼く。息を吸うたび、全身が甘く震える。怜子は手を胸に当てる。熱が、伝播する。五十田の瞳が、闇の中で輝く。互いの距離が、肌に直接刻まれる。作業は終わったのに、疼きは終わらない。

夜風が、カーテンを揺らす。怜子はゆっくりと息を吐く。明日も、校長室で待つ業務。視線が、再び落ちるだろうか。指先が、再び触れるだろうか。全身が、静かに期待する。

(第3話へ続く)