篠原美琴

滴る唇と縛められた肌(第1話)

この作品は18歳未満の方の閲覧を禁止します。フィクションであり、現実の人物・事件とは一切関係ありません。

## 第1話:食卓の残光

 雨の音が、窓ガラスを叩き続ける。平日の夜、街は早く静まり返り、アパートの部屋にだけ、かすかな湯気の匂いが漂っていた。三十代半ばの私、佐倉遥は、台所で最後の皿を拭き終え、食卓に戻った。向かいに座るのは、血のつながらない義弟の拓也。二十五歳の彼は、数ヶ月前からこの部屋で暮らすようになった。理由は単純だ。仕事の都合で上京した彼に、便宜を兼ねて鍵を渡しただけ。家族でもない、ただの同居人。それ以上でも以下でもないはずだった。

 夕食はいつも通り、質素なもの。煮物と味噌汁、炊き立てのご飯。言葉を交わすのは、箸の音だけ。拓也は箸を置くと、ゆっくりとグラスに口をつけた。水を飲む仕草は、静かで無駄がない。喉仏が、かすかに上下する。それを、私は何度か見ていた。

 今夜も、食事が終わった食卓で、彼の唇に視線が落ちた。湯気が冷めた茶碗の縁に、残る米粒を拭う彼の指先。だが、私の目は、そこからずれていた。唇の端に、わずかに光るもの。唾液の、薄い膜。食後の湿り気が、街灯の光を反射して、きらりと揺れる。透明で、柔らかく、消え入りそうな輝き。それは、ただの残光のはずなのに、なぜか息を詰まらせる。

 私は、自分の息がわずかに乱れるのを、感じていた。胸の奥で、何かが蠢く。視線を上げると、拓也の目がこちらを捉えていた。黒い瞳、静かな湖面のように穏やかで、底知れぬ。互いの視線が、食卓の中央で絡みつく。距離は、テーブルの幅だけ。触れられない、三十センチほどの空白。

 沈黙が、重く部屋を満たす。雨音が、遠くで響くだけ。拓也の唇が、わずかに動いた。言葉を発するわけではない。ただ、息を吐く仕草。そこに、再び光が宿る。唾液の滴りが、唇の輪郭をなぞるように、ゆっくりと滑る。私の喉が、乾く。指先が、テーブルの縁を無意識に握りしめていた。

 彼は、視線を逸らさない。いや、逸らせないのかもしれない。私も、同じだ。食卓の空気が、熱を帯び始める。触れぬ距離に、肌が疼く。首筋が、じわりと湿るのを感じる。なぜ、今夜はこんなに、息が熱いのか。普段は、ただの同居。朝の挨拶、夜の別れの言葉。それだけのはずなのに。

 拓也の指が、グラスに伸びる。水を、もう一口。唇が湿り、輝きが増す。ごくり、という喉の音が、静寂を破った。低く、響く音。私の胸に、電流のような予感が走る。あの音は、ただの飲み込む仕草ではない。何かを、抑え込む響き。視線が、さらに深く絡みつく。

 私は、立ち上がるのを、ぐっと堪えた。皿を片付けようと、手を伸ばすが、指先が震える。拓也の瞳に、かすかな揺らぎ。息がわずかに途切れる。食卓の向こうで、彼の唇が、再び光った。滴るような、唾液の残光。

 この沈黙が、どこへ向かうのか。触れられない熱が、募るばかりだ。

(つづく)