藤堂志乃

他人の玩具に蕩ける妻の視線(第1話)

この作品は18歳未満の方の閲覧を禁止します。フィクションであり、現実の人物・事件とは一切関係ありません。

## 第1話:街角に絡む視線

 平日、夕暮れの街は、灰色の空の下で静かに息を潜めていた。オフィス街の路地を抜け、美咲はいつもの帰路を歩いていた。三十歳。結婚して八年。夫の顔は、毎朝のコーヒーの湯気とともにぼんやりと浮かぶだけだ。会話は天気予報の延長線上、触れ合う指先は冷たく乾いている。胸の奥で、何かが渇いて、静かに疼いていた。夫の不在は、物理的なものではない。心の隙間に、風が通り抜けるような、名前のない空虚。

 美咲はコートの襟を立て、足音を響かせて歩く。街灯が一つずつ灯り始め、濡れたアスファルトに長い影を落とす。雨上がりの空気は重く、肺の奥まで湿り気を運んでくる。誰もが急ぎ足で、互いの視線を避けるこの時間帯。彼女の心もまた、表面は穏やかで、内側だけがざわめいていた。夫の帰宅を待つ夕食の支度。冷蔵庫の残り物。ベッドの上で背中を向け合う夜。何年も前から、繰り返される無味乾燥な日々。疼きは、そんな日常の隙間から、ゆっくりと這い上がってくる。

 路地の角で、信号待ち。美咲はスマートフォンを取り出し、画面を無意味にスクロールする。夫からのメッセージはない。代わりに、空の通知欄が広がるだけ。ふと、視線を感じた。横合いから、穏やかだが確かな重みのある視線。彼女は顔を上げた。

 そこに、男が立っていた。三十五歳くらいだろうか。黒いコートに、ネクタイを緩めたシャツ。背は高く、肩幅が広い。街の喧騒に溶け込むような、しかしどこか浮いた存在感。目が合う。美咲の心臓が、わずかに高鳴る。男の視線は、ただの通りすがりではない。静かに、彼女の輪郭をなぞるように、奥行きがある。

「すみません、突然で申し訳ないんですけど……少しお話しませんか?」

 声は低く、抑えめ。雨後の湿った空気に溶け込むような響き。美咲は一瞬、言葉を失う。ナンパなど、何年ぶりだろう。夫との出会い以来、男の視線など意識したこともない。だが、この声は違う。胸の奥を、静かに掻き乱す。拒否の言葉が喉に上るのに、なぜか唇が動かない。

「……え?」

 短い返事。それだけ。男は微笑むわけでもなく、ただ視線を外さない。沈黙が、二人の間に落ちる。信号が青に変わる。周囲の足音が通り過ぎる中、美咲の心は揺らぐ。歩き出そうとする足が、わずかに止まる。

「俺、拓也っていいます。近くのバーで一杯どうです? このまま帰宅ラッシュに紛れるのも、もったいないと思いませんか?」

 拓也。名前が、耳に残る。美咲は夫の顔を思い浮かべようとするが、ぼやけてしまう。代わりに、この男の視線が、胸の奥を熱くする。絡みつくように、肌の下を這う感覚。コートの袖口から、冷たい風が忍び込むのに、体温が上がる。なぜだろう。この出会いは、偶然のはずだ。平日夕暮れの、ありふれた街角。

 彼女は小さく頷く。自分でも驚くほど、自然に。「……少しだけなら。」

 二人は路地を並んで歩き始める。言葉は少ない。拓也の足音が、美咲のものと重なる。時折、肩が触れそうで触れない距離。視線が交錯するたび、心の奥で何かが疼く。夫のことを思うのに、顔が浮かばない。代わりに、拓也の横顔が、網膜に焼きつく。彫りの深い輪郭。抑えた息づかい。街灯の光が、彼の瞳に反射し、深みを増す。

 小さなバーに入る。カウンターに腰を下ろすと、グラスが置かれる。ウィスキーの琥珀色が、揺れる。拓也はゆっくりと口をつける。美咲も、グラスを傾ける。アルコールの熱が、喉を滑り落ち、胸に広がる。

「仕事帰りですか? 疲れた顔してますよ。」

 拓也の言葉。穏やかだが、視線は鋭い。美咲の内側を、覗き込むよう。彼女は目を伏せる。夫のことを話そうかと思うが、言葉にならない。代わりに、日常の断片が零れ落ちる。「……毎日、同じようなことばかりで。」

 沈黙。グラスを回す音だけが響く。拓也が指をカウンターに置く。長い指。節くれだった手。美咲の視線が、そこに絡まる。心の奥で、疼きが強くなる。夫の手とは違う。この温もりは、想像だけで肌を熱くする。

 時間はゆっくり流れる。話は断片的。仕事のこと、街の変化。だが、本当の会話は、視線と沈黙の中で交わされる。拓也の瞳の奥に、何かが見える。欲。静かな、抑えられた欲。美咲の胸が、ざわつく。夫の不在が、急に重くのしかかるのに、同時に解放感が広がる。

 店を出る頃、空はすっかり暗い。街灯の列が、道を照らす。拓也がポケットから名刺を取り出す。指先が触れる。わずかな熱。電流のように、美咲の肌を走る。

「また、連絡ください。待ってます。」

 名刺を握る手が、震える。拓也の背中が、夜の闇に溶ける。美咲は立ち尽くす。指先に残る熱が、胸の奥を溶かす。夫の顔が、ようやく浮かぶが、ぼやけ、色褪せている。何かが、変わり始めている。この疼きは、止まらない予感。

 家路につく足取りは、重い。名刺をコートのポケットにしまう。触れるたび、熱が蘇る。ドアを開け、夫の待つリビングへ。だが、心はすでに、街角の視線に囚われていた。

(第2話へ続く)

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