如月澪

咀嚼に溶ける唾液の糸(第2話)

この作品は18歳未満の方の閲覧を禁止します。フィクションであり、現実の人物・事件とは一切関係ありません。

## 第2話:唾液混じりの果実を分かち合う

 翌朝、遥はベッドの上で目を覚ました。カーテンの隙間から差し込む柔らかな朝日が、枕元を淡く照らす。平日特有の静かな朝の気配。窓の外では、遠くの車のエンジン音が低く響き、街がゆっくりと動き出す気配がした。遥は昨夜のことを、ふと思い浮かべた。あの咀嚼音。拓也の唇から引く唾液の糸。桃を差し出された瞬間、身体の奥で生まれた震え。頰が、じんわりと熱くなる。なぜこんなに鮮明に残っているのだろう。日常の欠片のはずなのに、心の奥で静かに疼く。

 シャワーを浴び、鏡の前で髪を整えながら、遥は自分の唇に視線を落とした。普段なら気にも留めないのに、指先で軽く触れると、昨夜の記憶がよみがえる。拓也の口元で光った、あの透明な糸。温かく、柔らかく、内側から溢れ出るもの。喉が微かに乾くような感覚。遥は首を振り、仕事着に袖を通した。広告代理店のデスクワークが待っている。ルームシェアのルームメイトとして、拓也とはただの同居人。それ以上でも以下でもないはずだ。

 キッチンでコーヒーを淹れる。拓也はすでに外出済みで、カウンターにメモが残されていた。「今日も遅くなるかも。夕食は適当に」。遥はそれを読み、胸に小さな波が立つ。昨夜の夕食の続きのように、今日も並んで食卓を囲むのだろうか。咀嚼音が、再び耳に響く想像に、指先が微かに震えた。コーヒーの湯気が立ち上る中、遥は深呼吸をし、家を出た。

 一日が過ぎる。オフィスの喧騒、クライアントとの打ち合わせ、残業の気配。だが、遥の頭の片隅に、昨夜の光景がちらつく。昼休みにサンドイッチを頰張る時、無意識に自分の咀嚼音に耳を澄ませた。クチュ、という湿った響き。唾液が果物の汁気と混じり、唇を濡らす感触。拓也のそれが、なぜか重なる。仕事中も、ふとした瞬間に頰が熱くなり、視線をデスクの書類に落とす。こんなことで動揺するなんて、自分らしくない。遥はそう思いながら、夕方の帰路についた。

 マンションに戻ると、すでに薄暮の空が広がっていた。平日らしい、静かな路地。街灯がぽつぽつと灯り始め、足音だけが響く。ドアを開けると、拓也の声が聞こえた。

「おかえり。もう少しで夕食できるよ」

 キッチンから漂う香り。コンビニの惣菜と、新鮮な果物。今日はメロンらしかった。遥はバッグを置き、カウンターに腰掛ける。拓也はエプロンをかけ、皿を並べている。二十八歳の彼の背中は、営業の疲れを微かに残しつつ、頼もしい体躯をしていた。血縁のないルームメイトとして、数ヶ月前から。家賃の折半、互いの生活リズムを尊重する。それがルールだ。なのに、昨夜から空気が、少し違う。

 夕食が始まる。テーブルの上には、メロンの一切れが皿に盛られ、橙色の灯りがその表面を艶やかに濡らす。窓外の街灯がぼんやりと室内を照らし、静寂が二人を包む。遥はフォークでサラダを口に運ぶ。拓也も同じく、咀嚼を始める。クチュ、クチュ。昨夜と同じ、湿った響きが部屋に広がる。遥の耳が、熱くなった。視線を上げると、拓也の唇がゆっくり動いている。メロンの果肉が押し潰され、透明な汁気が零れる。唾液と混じり、唇の端で細い糸を引く。あの光。遥の胸に、淡い疼きが再び灯る。

 拓也は咀嚼を終え、メロンをフォークに刺す。遥の視線に気づいたのか、軽く笑みを浮かべた。

「これ、今日のスーパーで買ったんだ。すごく甘いよ。昨日の桃みたいに」

 遥は頷き、自分の皿に手を伸ばす。だが、拓也が先にメロンを一口、口に含んだ。クチュリ、という音。唇が果肉を包み、唾液が表面を濡らす。ゆっくりと咀嚼し、柔らかな繊維が砕ける響きが、遥の鼓膜を震わせる。拓也の喉が動き、飲み込む気配。そして、彼はメロンを遥の方へ、そっと差し出した。唇から、細い唾液の糸が引いている。果実の表面が、温かく光る。

「一口、食べてみる? 俺の唾液が混じってるけど……そのまま、分け合おうよ」

 提案は、自然だった。昨夜の続きのように、穏やかで、強引さがない。遥の心臓が、速まる。拒否する理由などない。むしろ、身体の奥で疼きが膨らむ。この日常の延長で、互いの息が近づく。遥は視線を拓也の目に合わせ、静かに頷いた。合意の甘い緊張が、空気を重くする。

 拓也の唇が、近づく。メロンの欠片をくわえたまま、遥の口元へ。遥は息を潜め、自分の唇を開く。柔らかな接触。唇が触れ合う瞬間、温もりが伝わる。拓也の唾液が、果実を通じて遥の舌に絡みつく。甘酸っぱいメロンの味に、微かな塩味が混じる。あの糸が、口内で溶け合う。クチュ、という咀嚼音が、二人の間で響く。遥の舌が、無意識に動く。果肉を押し、唾液を味わう。温かく、ねっとりとした感触が、喉の奥まで染み入る。

 遥の頰が、熱い。唇の端で、唾液の糸が再び引く。二人はゆっくりと離れ、互いの息遣いが混じり合う。拓也の目が、優しく遥を見つめる。遥は言葉を探すが、出ない。ただ、指先がテーブルの上で震え、拓也の手に触れる。自然と絡みつく。指の温もり。肌の感触が、静かに伝わる。部屋の空気が、甘く重くなる。街灯の光が、二人の影を長く伸ばす。

 夕食は続く。だが、もうただの食事ではない。メロンをもう一切れ、拓也が口に含む。咀嚼の音が、再び響く。遥の視線は、そこに絡みつく。次は、自分から差し出したい。そんな疼きが、胸に生まれる。指が絡んだまま、互いの息が近づく。

(第3話へ続く)