如月澪

咀嚼に溶ける唾液の糸(第1話)

この作品は18歳未満の方の閲覧を禁止します。フィクションであり、現実の人物・事件とは一切関係ありません。

## 第1話:咀嚼音に絡まる視線

 平日、夕暮れの薄闇がカーテンの隙間から忍び込む頃、遥はいつものようにキッチンカウンターに肘を預けていた。二十六歳の彼女は、広告代理店で働くOL。残業続きの日常を送りながら、経済的な理由でこのマンションの一室を二十八歳の拓也とシェアしていた。二人は数ヶ月前、共通の知人を通じて知り合い、血縁など一切ない、ただのルームメイト。家賃を折半するだけの、淡々とした関係性だった。

 拓也は営業マンで、遥より少し遅れて帰宅することが多かった。この日も、コンビニの弁当を広げ、二人並んで夕食を摂る。テーブルの上には、買ってきた果物――熟れた桃が一皿に並び、柔らかな橙色の灯りがその表面を艶やかに照らしていた。窓の外では、街灯がぼんやりと灯り始め、遠くの車の音が低く響く。静かな夜の気配が、室内を包み込んでいた。

 遥はフォークでサラダを突きながら、拓也の横顔を無意識に眺めていた。彼の顎のラインは、仕事の疲れを微かに残しつつ、男らしい輪郭を保っている。普段はそんなことに気を取られることなどないのに、今日に限って、なぜか視線が離れなかった。

 カチャリ、とフォークが皿に触れる音。拓也が桃を一口かじった瞬間だった。咀嚼の音が、静かな部屋に響き渡る。クチュ、クチュ、という湿った響き。柔らかな果肉が歯に押し潰され、唇の端から微かな汁気が零れる。その光景に、遥の耳が熱くなった。

 咀嚼音は、意外に近く、鮮明だった。拓也の唇がゆっくりと動き、果物の繊維が砕ける微かな音が、遥の鼓膜を震わせる。普段なら気にも留めないはずのその音が、今日は妙に生々しく、身体の奥に染み入るようだった。遥は息を潜め、無意識に自分の咀嚼を止めた。フォークを持った手が、静止する。

 拓也の唇から、透明な唾液の糸が引いていた。桃の汁気と混じり、唇の端で微かに光る。街灯の柔らかな光が、それを捉え、細い糸のようにきらめかせる。あの糸は、温かく、柔らかく、拓也の内側から溢れ出るもの。遥の視線は、そこに釘付けになった。なぜだろう。こんな日常の欠片に、心がざわつくなんて。

 遥の胸に、淡い疼きが生まれた。日常の延長線上で、突然訪れた違和感。ルームシェアを始めて以来、二人は互いに干渉せず、穏やかな距離を保ってきた。朝の挨拶、帰宅時の「おかえり」、週末の掃除分担。それだけだ。なのに、今、この咀嚼音が、遥の肌を静かに焦がす。喉の奥が、乾くような、湿るような、不思議な感覚。

 拓也は咀嚼を続け、桃をもう一口。クチュリ、という音が再び響く。唇が開き、閉じ、白い歯の間から唾液が光る。遥は目を逸らそうとしたが、できなかった。視線が、拓也の口元に絡みつく。息が、少しずつ近づく気がした。テーブルの向こうで、拓也の呼吸が聞こえる。穏やかで、深く、温かい。

「遥、どうした? なんか、ぼーっとしてるよ」

 拓也の声が、低く響いた。咀嚼を終え、彼は桃の欠片をフォークに刺し、遥の方へ視線を向ける。遥は慌てて目を伏せ、頰が熱くなるのを感じた。

「ううん、なんでもない。ただ、疲れてるのかも」

 言葉を返しながら、心臓の鼓動が速まる。拓也は笑みを浮かべ、桃を一口かじった。咀嚼音が、再び遥の耳を撫でる。クチュ、クチュ。唾液の糸が、唇から滴り落ちそうに揺れる。その光に、遥の指先が微かに震えた。

 夕食は進む。拓也が果物の皿を遥の方へ寄せた。

「これ、甘いよ。食べてみたら?」

 遥は頷き、桃を手に取る。だが、拓也の視線が、彼女の唇に注がれていることに気づく。互いの息遣いが、テーブルの上を越えて近づく。部屋の空気が、僅かに重くなる。

 拓也が、突然、桃を自分の口に含んだ。柔らかな果肉が唇に触れ、咀嚼が始まる。クチュリ、という音。唾液が混じり、桃の表面が濡れ光る。彼はそれを、ゆっくりと遥の方へ差し出した。

 その瞬間、遥の身体が、静かに震えた。

(第2話へ続く)