久我涼一

ヒール越しの視線、口移しの熱(第2話)

この作品は18歳未満の方の閲覧を禁止します。フィクションであり、現実の人物・事件とは一切関係ありません。

## 第2話:居酒屋の酒、触れるヒール

 雨の街は平日夜の静けさに包まれ、ネオンが濡れたアスファルトに滲んでいた。私たちはオフィスを出て、すぐ近くの路地裏にある小さな居酒屋に入った。カウンターだけのこぢんまりした店で、常連らしいサラリーマンが数人、グラスを傾けているだけ。店主の無言の視線に迎えられ、奥の席に腰を下ろす。美咲のハイヒールが木の床に軽く響き、カツ、という音が雨音に溶け込んだ。

「生ビールで二つ。あと、枝豆と焼き鳥の盛り合わせを」

 私が注文すると、美咲は小さく頷き、コートを脱いだ。白いブラウスが室内灯に柔らかく映え、スカートのラインがカウンターの影に沈む。グラスが運ばれてくると、乾杯の音が静かに響いた。冷たいビールが喉を滑り、残業の疲れが少しずつ解けていく。

「こんなところで部長と飲むなんて、想像してませんでした」

 美咲がグラスを置き、微笑む。化粧の薄い頰に、ほのかな赤みが差している。雨の湿気が店内に漂い、外の街灯が窓ガラスにぼんやりと揺れる。この時間帯の居酒屋は、日常の延長線上にあるのに、どこか非日常の気配を帯びていた。

「私もだよ。仕事の相談のつもりだったのに、つい誘っちまった」

 私は苦笑し、枝豆を摘む。話はオフィスの延長から始まった。今日の契約書の件、次のプロジェクトの愚痴。美咲の声は落ち着いていて、時折グラスを口に運ぶ仕草が、唇の柔らかさを際立たせる。三十歳の彼女は、仕事のプレッシャーを抱えながらも、どこか余裕を感じさせる。私の五十代の経験が、彼女の言葉に自然と重なる。

 ビールが二杯目に差し掛かると、会話は少しずつプライベートへ移った。彼女の独り暮らしの話、私の空っぽの家。妻との別居、独立した家族の不在。互いの孤独が、酒の熱とともに浮かび上がる。

「部長はいつも冷静に見えますけど、意外と寂しがり屋なんですね」

 美咲の視線が、私の顔を捉える。カウンターの下で、彼女の脚が少し動いた。ハイヒールの先が、私の靴に軽く触れる。偶然か、それとも。ストッキングの滑らかな感触が、革越しに伝わってくる。私はビールを飲み干し、視線を逸らした。心臓の鼓動が、わずかに速くなる。

「君だって、同じだろ。この歳になると、仕事だけじゃ埋まらない空白がある」

 私は三杯目を注文し、彼女のグラスにも注いだ。店内のBGMが低く流れ、雨音が絶え間なく窓を叩く。美咲のヒールが、再び私の足に触れた。今度は少し長く、意図的に留まるような感触。彼女の脚線が、カウンターの下で微かに揺れる。私は無意識に脚を寄せ、その熱を確かめるようにした。日常のオフィスでは決して許されない、こうした触れ合いが、酒のせいか理性の隙間を埋めていく。

「熱いですね、この空気」

 美咲が呟き、自分のグラスを空にした。私のグラスに視線を落とし、ふと身を寄せる。

「部長のグラス、貸してください。私の分、なくなっちゃったんです」

 彼女の声に、甘い響きが混じる。私はグラスを差し出し、彼女が口をつけるのを眺めた。唇が縁に触れ、喉を鳴らす音が近くで聞こえる。ビールが少し零れ、彼女の唇を濡らす。私は息を潜め、その光景に視線を奪われた。

 そして、彼女はビールを口に含んだまま、私の方へ顔を近づけた。目が合い、互いの視線が絡みつく。ゆっくりと唇を寄せ、口移しでビールを注がれる瞬間が来た。温かく柔らかな唇の感触、舌先の微かな動き。ビールの苦味が混じり、彼女の息の熱が口内に広がる。私は無意識に手を彼女の肩に回し、その柔らかさを噛み締めた。理性が揺らぎ、心の奥で抑えていた疼きが一気に膨らむ。

 口移しが終わると、美咲は小さく息を吐き、頰を赤らめた。唇が離れる瞬間、糸を引くような湿った感触が残る。店内の空気が、重く甘く変わっていた。

「ごめんなさい、急に……。でも、なんか、したくなっちゃって」

 彼女の言葉に、好意の響きがある。私は頷き、彼女の視線に応えた。

「いや、悪くない。むしろ、いい」

 四杯目のビールが運ばれ、私たちは黙って飲み続けた。カウンターの下で、ヒールの先が私の脚に何度も触れる。意図せぬ熱が、互いの肌を伝う。話は途切れ、視線だけで会話が続く。彼女の瞳に映る私の姿が、五十代の重みを帯びながらも、抑えきれない衝動を湛えている。

 店主が最後の注文を片付け、閉店の気配が漂う頃、美咲が立ち上がった。ハイヒールの音が床に響き、私の耳に甘く刻まれる。私は会計を済ませ、彼女のコートを肩に掛けた。店を出ると、雨は小降りになり、路地の街灯が二人を照らす。

 美咲の手が、自然に私の腕に絡んだ。細い指が袖を握り、温もりが伝わる。オフィスの関係が、ゆっくりと崩れゆく予感に、胸が熱くなる。

「部長、まだ帰りたくないです……」

 彼女の囁きに、夜の街が続きを誘う。私は腕を引き、雨の路地を歩き始めた。ヒールの響きが、マンションへの道を刻む。

(第2話 終わり 次話へ続く)