久我涼一

ヒール越しの視線、口移しの熱(第1話)

この作品は18歳未満の方の閲覧を禁止します。フィクションであり、現実の人物・事件とは一切関係ありません。

## 第1話:残業のオフィス、絡む視線

 平日の夜、オフィスはいつもの喧騒を失い、静かな空気に包まれていた。窓の外では街灯がぼんやりと光を落とし、ビルの谷間に雨の気配が漂う。時計の針はすでに二十時を回り、周囲のデスクはほとんど空っぽだ。私は部長室のデスクで、残務を片付けていた。五十代半ばのこの歳になると、こうした遅くまでの残業も日常の延長線上にある。ただ、今日に限っては、少し違う心持ちがあった。

 カツ、カツ、という乾いた音が廊下から響いてきた。ハイヒールの響きだ。オフィスでは珍しくないはずのその音が、なぜか耳に残る。足を止めることなく近づいてくる気配に、私は無意識に視線を上げた。ドアの向こうに、美咲の姿があった。

 彼女は三十歳の部下で、営業部のエース格。黒いタイトスカートに白いブラウス、足元は細いストラップの黒いパンプス。入社して八年ほどになるだろうか。仕事はきっちりこなすタイプで、私の指示にも素直に応じる。だが、最近、その存在が妙に意識に引っかかるようになっていた。

「部長、お疲れ様です。例の契約書の件、確認をお願いできますか?」

 美咲はそう言って、プリントアウトした書類を抱えて入室した。ドアを閉め、デスクの前に立つ。ハイヒールがフローリングに軽く触れる音が、再び響く。カツ、という一瞬の音が、私の集中を乱す。

「うん、わかった。座ってくれ」

 私は椅子を勧め、書類を受け取った。彼女が腰を下ろすと、スカートの裾がわずかに上がり、膝下の脚線が露わになる。細く引き締まったふくらはぎ、ストッキングに包まれた滑らかな曲線。ハイヒールの先が床に触れ、微かな光沢を放っている。私は視線を逸らそうとしたが、なぜかそれが難しい。日常のオフィスで、こんな些細なことに心が揺らぐとは。

 書類をめくりながら、彼女の説明を聞く。声は落ち着いていて、論理的だ。仕事の話に集中しようとするのに、視線が自然と下に落ちる。ハイヒールのアーチが足の甲を美しく持ち上げ、踵のラインがシャープに際立つ。あの響きは、彼女の歩くリズムそのものだ。朝のエレベーターで、昼の廊下で、無意識に耳を澄ませていたのかもしれない。

「ここ、クライアントの条件変更に対応してます。問題ないでしょうか?」

 美咲が身を乗り出し、指で書類を指す。その仕草で、脚が少し交差し、ヒールの先が揺れる。私は慌てて目を上げ、頷いた。

「問題ない。よくまとまってるよ。君の仕事はいつもそうだ」

 褒めると、彼女は小さく微笑んだ。化粧の薄い唇が、柔らかく弧を描く。その瞬間、オフィスの空気が少し重くなった気がした。残業の疲れか、それとも別の何かか。

 書類を返し、コーヒーを淹れるふりをして立ち上がる。キッチンコーナーでカップを二つ用意し、一つを彼女に差し出した。

「まだ帰るには早いな。少し休憩するか」

 美咲はカップを受け取り、頷いた。私たちはデスクの向かい側に座り、沈黙が訪れる。外の雨音が、かすかに窓を叩く。こんな時間帯のオフィスは、まるで二人きりの空間だ。

「部長はいつも遅くまでいらっしゃいますね。ご家族は大丈夫ですか?」

 彼女の言葉に、私は苦笑した。家族。もう何年も前から、妻とは別居状態だ。子供たちも独立し、家は空っぽ。仕事が埋めてくれる空白を、こうして埋めている。

「いや、独り身みたいなもんだよ。君は?」

 美咲はカップを口に運び、目を伏せた。

「私もです。仕事が忙しくて、最近は出会いもなくて……。この歳になると、周りは家庭持ちばかりになりますよね」

 三十歳。彼女の言葉に、微かな寂しさが滲む。私も五十代。似たような孤独を抱えている。オフィスという日常の中で、互いの視線が絡み始めたのは、いつからだろう。ハイヒールの音がきっかけだったのかもしれない。あの響きが、心の奥に潜む何かを揺さぶる。

 話は自然と、仕事の愚痴からプライベートへ移った。彼女の元恋人の話、私の過去の失敗。酒が入っていないのに、言葉が少しずつ熱を帯びる。美咲の脚がデスクの下で動き、ヒールの先が私の靴に軽く触れた。偶然か、意図か。どちらにせよ、その感触が肌に残った。

「部長みたいな人が、独りでいるなんて、もったいないですよ」

 彼女の視線が、真正面から私を捉える。ハイヒールの光沢が、室内灯に映える。私は喉を鳴らし、言葉を探した。

「美咲、今日はもう遅い。今夜、どこかで一杯やらないか? 仕事の続きも兼ねて」

 誘いの言葉が出た瞬間、心臓の鼓動が少し速くなった。彼女は一瞬、目を細め、それからゆっくりと頷いた。

「ええ、いいですね。私もそのつもりでした」

 合意の言葉に、微笑みが広がる。美咲が立ち上がり、書類をまとめながら、ハイヒールを鳴らす。カツ、カツ。その音が、今宵の予感を運んでくるようだ。私はデスクを片付け、彼女の後ろ姿を見つめた。細い背中、揺れる脚線。抑えきれない疼きが、静かなオフィスに満ちていく。

 雨の降る街へ出る頃、私の胸に甘い熱が残っていた。あの微笑みと、ヒールの響きが、続きを約束している。

(第1話 終わり 次話へ続く)