この作品は18歳未満の方の閲覧を禁止します。フィクションであり、現実の人物・事件とは一切関係ありません。
## 第1話:薄壁越しの湿った舌先
雨の降り続く平日夜、僕はこの古びたマンションに引っ越してきた。三十五歳の独身、仕事の都合で急ごしらえの新居だ。エレベーターの軋む音が響く廊下を抜け、部屋の鍵を開ける。室内は薄暗く、埃っぽい空気が鼻を突く。荷物を適当に置き、壁際に立つと、隣室から微かな音が聞こえてきた。
足音。軽く、規則正しい。女性のものだろうか。壁は薄く、まるで息がかかる距離のように音を透過させる。最初は気にも留めなかった。湯を沸かす音、水の滴る音、ページをめくるかすかな擦れ。日常の欠片が、壁一枚を隔てて流れ込んでくる。
その夜、僕は壁際に耳を寄せた。静寂が部屋を支配する中、隣の気配が鮮明になる。息づかい。浅く、穏やか。二十八歳くらいの女性だと、いつしか想像を巡らせていた。名前も知らない。ただ、音から浮かぶ輪郭だけ。血縁などない、ただの隣人。
翌朝、コーヒーを淹れながら、再び壁に触れる。冷たいコンクリートに伝わる微かな振動。彼女の朝の支度か。引き出しの開閉、布ずれの音。静かなリズムに、僕の鼓動が同期し始める。なぜか、視線を壁に向けたくなる。
夕暮れ、仕事から戻ると、雨が止んでいた。街灯の淡い光が窓から差し込み、部屋をぼんやり照らす。壁の隅、床に近い位置に小さな隙間を見つけた。古い建物の傷みか、直径一センチほどの黒い穴。埃を払い、そっと覗く。暗がりに、隣室の片隅が浮かぶ。ベッドの端、淡いランプの光が床に落ちる。
そこに、彼女がいた。細い首筋、肩のライン。黒髪が背に流れ、唇が僅かに動く。舌先が、ゆっくりと上唇を湿らせる。透明な膜が光を反射し、艶めく。無意識の仕草だろうか。それとも、渇きを癒す癖か。その姿が、僕の瞳に絡みつくように、彼女が息を吸う。
僕は息を潜めた。心臓の音が、壁越しに響きそうで怖い。彼女は気づかぬ様子で、ソファに凭れ、雑誌を広げる。ページをめくる指先が、白く細い。時折、唇を舌でなぞる。湿った音が、想像の中で響く。ぴちゃ、と小さく。唾液の光沢が、ランプにきらめく。
夜が深まる。僕は壁際に座り込み、隙間から彼女を追う。夕食の音、フォークの軽い触れ合い。ワイングラスの縁に唇が寄る気配。息が少しずつ、深くなる。静かな部屋で、僕の肌が熱を帯びる。視線が、彼女の唇に固定される。あの湿り気。あの柔らかな動き。舌が内側を這う瞬間、わずかな凹みができ、すぐに元に戻る。
翌日も、同じ。平日、仕事の合間に頭をよぎるのは、あの仕草。マンションの廊下で、彼女の気配を感じる。足音が近づき、遠ざかる。ドアの閉まる音。血縁のない、ただの隣人。なのに、壁が薄いせいで、距離が溶けていく。
雨の夜が続く。僕は隙間に目を凝らす。彼女はベッドに横たわり、枕に頰を寄せる。唇が乾き、舌で湿らせる。ゆっくり、深く。息が漏れる。はあ、と小さく。部屋の空気が、甘く張りつめる。僕の喉が渇く。視線が熱を帯び、肌が疼き始める。
ある夜、静寂が頂点に達した。隙間から見える彼女のシルエット。ランプの光が、唇を照らす。舌先が、いつもより長く這う。唾液の糸が、僅かに引く気配。息づかいが、乱れ始める。深く、熱く。吐息が壁を震わせ、僕の耳に届く。彼女の内面が、わずかに覗く。唇の渇望が、静かに膨張する。
僕は動けなかった。鼓動が、彼女の息に溶け込む。壁一枚の向こうで、何かが変わり始めていた。
(第2話へ続く)
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