芦屋恒一

ジム隣人のアナウンサー熱視線(第1話)

この作品は18歳未満の方の閲覧を禁止します。フィクションであり、現実の人物・事件とは一切関係ありません。

## 第1話:汗の残り香、壁越しの囁き

 平日の夜、街の喧騒が遠くに溶け込む時間帯。会社からの帰り道に寄ったジムは、仕事帰りの大人たちでほどよく埋まっていた。照明は柔らかく、機械の低く唸る音と足音が、静かなリズムを刻む。58歳の私、恒一は、いつものようにトレッドミルを踏みしめていた。肩書きは部長兼副支店長。長年、部下の背中を押し、数字を積み上げてきた男だ。家庭は安定し、妻とは穏やかな距離を保ち、子供たちは独立して遠くにいる。ジム通いは、そんな日常の隙間に忍び込むささやかな贅沢。汗を流すことで、溜まった重みを少しだけ振り払う。

 視線を前方に固定し、息を整えながら歩数を重ねる。傍らのミラーに映る自分の姿は、年齢相応の逞しさ。白髪交じりの短髪、引き締まった肩幅。決して若作りではない。ただ、放っておけば緩む体を、己の意志で保つ。それが、私の矜持だ。

 ふと、隣のトレッドミルに人影が滑り込む。女性だった。黒のレギンスにフィットしたスポーツウェアが、しなやかな肢体を包んでいる。年齢は35歳ほどか。黒髪をポニーテールにまとめ、額に薄く汗の膜を浮かべている。耳にはワイヤレスイヤホン。集中した眼差しが、機械のディスプレイに注がれている。その横顔に、どこか見覚えがある。テレビのニュースで、何度か目にしたことがある。あの人気女子アナウンサー、美咲。名前は確か、佐倉美咲。同じマンションの隣室に住む女性だと、最近気づいたばかりだ。エレベーターで何度か顔を合わせ、軽く会釈を交わす程度の関係。まさか、こんなところで出会うとは。

 彼女の息づかいが、微かに聞こえてくる。規則正しい、深い呼吸。汗が首筋を伝い、鎖骨の窪みに溜まる。ウェアの生地が湿り、肌の輪郭を淡く透かす。真剣な眼差しは、まるで原稿を読み上げる時のそれだ。プロフェッショナル。仕事の重圧を、こうして体で受け止めているのだろう。私の視線が、自然と彼女に絡みつく。軽く、静かに。彼女は気づかない。いや、気づいていても、無視を決め込んでいるのかもしれない。どちらにせよ、この距離で互いの存在を確かめ合うだけで、胸の奥に小さな波紋が広がる。

 30分ほど経ち、彼女がトレッドミルを止めた。タオルで首を拭い、水を飲む仕草。喉が滑る様子に、思わず息を飲む。彼女がこちらをちらりと見る。目が合う。わずかな、探るような視線。

「こんばんは。隣室の方ですよね」

 彼女の声は、低く柔らか。ニュースの端正なトーンとは違い、汗に濡れた生の響きだ。私はペースを落とし、機械を止める。

「ええ、そうだ。佐倉さんか。ジム、よく来られるんですね」

 軽い挨拶。互いの名前を知っていることを、さりげなく確認する。彼女は微笑む。汗ばんだ頰が、ほのかに上気している。

「最近、忙しくて。夜遅くしか来れなくて。あなたも、毎週のように見かけますよ。フォーム、きれいですね。部長さん、でしたっけ?」

 マンションの噂話か、エレベーターでの会話から、私の肩書きを知っているらしい。私は小さく頷く。

「58歳にもなると、維持が精一杯だよ。君の集中力には、敵わないな」

 年齢を明示する言葉を、自然に挟む。35歳の彼女と、23歳の差。数字にすれば、ただの事実だ。だが、この場で口にすると、互いの輪郭が少し鮮明になる。彼女は笑みを深め、タオルを肩にかける。

「ありがとうございます。私も、仕事のストレス発散に。アナウンサーなんて、意外と体力が要りますから」

 短い会話。互いの汗の匂いが、微かに混ざる。彼女の肌は、照明の下でしっとりと輝き、真剣な眼差しが、私の胸に静かな熱を灯す。私は視線を逸らさず、ただ受け止める。軽率な言葉は吐かない。状況が、自然に熟すのを待つ。それが、私の流儀だ。

 トレーニングを終え、各自ロッカールームへ。シャワーの音が響く中、私は彼女の後ろ姿を、遠くから見送る。しなやかな腰の揺れ、足取りの確かさ。隣室の住人。人気女子アナ。汗ばむ肌の記憶が、頭から離れない。

 マンションに戻る頃、外はすっかり夜。エレベーターで再び顔を合わせる。彼女は髪を乾かし、ゆったりしたニット姿。香水の残り香が、甘く漂う。

「お疲れ様でした。またジムで」

「ええ、また」

 扉が閉まる瞬間、彼女の視線が一瞬、長く絡む。エレベーターの静寂に、心臓の鼓動が響く。

 自室に戻り、壁に耳を寄せるわけではない。ただ、いつもの習慣で、静かに座る。すると、隣室から柔らかな独り言が、薄い壁越しに聞こえてくる。

「……ふう、今日もきつかった……でも、あの人の視線、なんだか……」

 彼女の声。疲れを溶かすような、甘い吐息混じり。私の名は出さない。ただ、ぼんやりとした輪郭。心が、ざわつく。抑制された欲望が、静かに疼き始める。この距離で、互いの気配を意識するだけで、体が熱を持つ。明日の夜、再びジムで会うだろうか。壁越しの囁きが、夜の静寂を優しく掻き乱す。

(第2話へ続く)

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