久我涼一

夫の後輩に疼く教師妻の視線(第2話)

この作品は18歳未満の方の閲覧を禁止します。フィクションであり、現実の人物・事件とは一切関係ありません。

## 第2話:カフェの視線、絡まる指先

 メールの返信は、すぐに打った。『資料、ありがとうございます。講演のフォロー、参考になります。何か機会がありましたら、またお話聞かせてください。美佐子』。送信ボタンを押した瞬間、指の震えが収まらない。職員室の蛍光灯の下で、画面を閉じると、胸の奥に小さな渦が残った。拓也の顔が、眼鏡越しの瞳が、脳裏に浮かぶ。あの握手の余温は、まだ掌に染みついているようだった。

 翌日、返信が来た。『美佐子先生、ありがとうございます。実は、学校のキャリア教育について、追加の相談がありましたらお伺いしたいのですが。平日夕方、近くのカフェでよろしいでしょうか。拓也』。学校の相談。講演の延長線上だ。美佐子はスマホを握りしめ、深呼吸した。断る理由はない。教師として、当然の対応。木曜の夕刻、五時、と返した。場所は駅前の静かなカフェ。平日なら空いているはずだ。

 その日、授業を終え、校舎を出る頃には空は薄暮れに染まっていた。十月の風がコートの裾を揺らし、街灯が一本ずつ灯り始める。美佐子はメイクを直し、薄いリップを塗った。鏡に映る自分は、いつもの四十歳三年の女教師。なのに、心臓の鼓動が少し速い。夫の健一は今頃、会社で残業中だろう。夕食は温め直しのカレー、いつものルーチン。

 カフェは駅から徒歩五分。ガラス張りの店内は、カウンター席が並び、奥に小さなテーブル。平日夕刻、客はまばらだ。サラリーマンが一人、ノートパソコンを広げ、別のテーブルで中年女性が紅茶を啜っている。ジャズのBGMが低く流れ、コーヒーの香りが空気を満たす。美佐子は窓際の席を選び、アイスラテを注文した。窓外の通りは、帰宅ラッシュの車が静かに流れ、街灯の光がアスファルトを濡らす。

 五時十分、拓也が入ってきた。ダークブルーのジャケットにチノパン、眼鏡は前回と同じ。肩幅の広い体躯が、ドアをくぐる瞬間に空気を圧迫する。視線が美佐子を探し、すぐに目が合った。軽く会釈し、カウンターで注文を済ませて近づく。座る前に、名刺を差し出す仕草はない。ただ、自然に椅子を引き、向かいに腰を下ろした。

 「美佐子先生、お待たせしました。今日はお時間いただき、ありがとうございます」

 声は低く、落ち着いている。講演の時と同じ抑揚。美佐子は微笑みを返し、ラテを口に運んだ。喉が乾いていた。

 「こちらこそ。学校の相談、ということですが」

 拓也は鞄からタブレットを取り出し、資料を表示した。キャリア教育の追加プログラムについて。会社の事例を基にした提案書だ。淡々と説明を始める。美佐子はメモを取りながら聞くが、集中は半分。テーブルの向こうで、彼の指が画面をタップする仕草。細い血管が浮く手首。ジャケットの袖口から覗くシャツの白。視線が資料から上がり、美佐子の顔に留まる。眼鏡越しの瞳が、静かに彼女を捉える。

 話が一段落つくと、自然に雑談に移った。拓也がコーヒーを啜り、窓外を見る。

 「先生のお勤めの学校は大変そうです。健一さんから、時々聞きますよ」

 夫の名前が出た瞬間、美佐子の指がカップを握りしめた。健一。十五年の夫。穏やかな日常の象徴。

 「健一から? そういえば、あなたが後輩だって言ってましたね。入社当時から優秀だって」

 拓也は小さく笑った。眼鏡のフレームが光を反射する。

 「健一さんは、僕の先輩として慕ってます。結婚十五年、羨ましいですよ。安定した生活、家庭の温かさ」

 言葉の端に、微かな棘があるわけではない。ただ、事実を述べるだけ。なのに、美佐子の胸がざわついた。安定。温かさ。それが今、薄い膜のように感じる。拓也の視線が、テーブルの上を滑り、彼女の手元に落ちる。細い指、結婚指輪の銀色。視線が絡む。美佐子は無意識に指を動かし、指輪を回した。

 「結婚、されてないんですよね。仕事が忙しいんですか」

 言葉が出たのは、自然だった。拓也はカップを置き、軽く肩をすくめる。

 「そうですね。三十五で独身。出会いがなくて。先生のような女性がいらっしゃると、羨ましくなりますよ」

 視線が直視に変わる。眼鏡の奥の瞳が、ゆっくりと美佐子の顔をなぞる。頰から、唇へ、首筋へ。講演の握手時と同じ、熱い流れ。美佐子の太腿が、スカートの上で擦れ合う。空気が、熱を持つ。カフェのBGMが遠く、互いの息遣いが聞こえるようだ。拓也の指が、テーブルの上でわずかに動く。触れそうで触れない距離。

 「先生、健一さんとの生活、幸せそうです」

 声が低くなる。美佐子は目を伏せ、ラテの氷が溶ける音を聞いた。幸せ。十五年の積み重ね。なのに、胸の空白が疼く。

 「ええ、穏やかですよ。ただ、大人になると、色々ありますわね」

 言葉の裏に、何かが滲む。拓也の視線が深くなる。沈黙が、二人の間に落ちる。熱い、粘つく空気。美佐子の肌が、じわりと汗ばむ。ブラウスの中で、胸の先が硬くなるのを感じた。

 時計が六時を回った。拓也が立ち上がり、会計を済ませる。美佐子もコートを羽織り、出口へ。ドアを開ける時、拓也の手が軽く彼女の背に触れた。偶然か、意図か。指先が、背骨のラインをなぞるように。電流が走る。美佐子の体が、震えた。外の風が冷たいのに、熱い。

 「今日はありがとうございました。また、相談があれば」

 拓也の声が、耳元で響く。視線が絡み、離れない。美佐子は頷き、指を差し出した。握手ではない。ただ、軽く触れる。掌が重なる瞬間、再びあの熱。湿り気を帯びた感触が、腕を伝い、胸へ。太腿の内側が、疼く。

 「こちらこそ。機会がありましたら」

 別れ際、拓也がスマホを取り出した。

 「LINE、交換しませんか。資料の共有、便利ですし」

 美佐子は迷わずQRコードを読み込んだ。指が画面をタップする時、震えが戻る。拓也は微笑み、踵を返した。背中が夜の通りに溶ける。美佐子は駅に向かいながら、掌を擦った。熱が、消えない。

 帰宅は七時半。健一はすでに夕食を温め、ビールを飲んでいた。いつもの顔、穏やかな笑み。

 「遅かったな。講演の後輩と会ったんだろ? 拓也と」

 美佐子は頷き、エプロンを着けた。カレーの匂いが台所に広がる。

 「ええ、学校の相談。キャリア教育の追加資料よ。優秀ね、あの子」

 健一は笑って頷く。「そうだろ。俺の自慢の後輩だ」

 食事が終わり、シャワーを浴びる。湯気が肌を包む中、美佐子の手が腹部を滑る。カフェの視線が蘇る。拓也の指が、背に触れた感触。胸の膨らみが、重く疼く。ベッドに入り、健一の腕に寄り添う。彼の指が背中を撫でる。優しい、馴染みの感触。なのに、体が反応しない。代わりに、拓也の掌が浮かぶ。あの熱が、指先から全身へ広がる。健一の息が耳にかかる。美佐子は目を閉じ、別の男の視線を追いかけた。体が、熱く疼く。

 翌朝、目覚めた時、スマホに通知。拓也からだった。『昨日はありがとう。次はもっと詳しくお話ししたいです。来週、どうですか』。

 美佐子の指が、返信ボタンに伸びる。理性が、わずかに揺らぐ。胸の奥で、何かが膨らみ始めていた。

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