如月澪

看護師の唇蜜と透けるレース(第2話)

この作品は18歳未満の方の閲覧を禁止します。フィクションであり、現実の人物・事件とは一切関係ありません。

## 第2話:氷の滴、唇に溶ける息

 翌日の夜も、雨は止む気配がなかった。病室の窓ガラスに、細かな雫が連なり、街灯の光をぼやけさせる。平日の二十時を過ぎ、周囲の廊下はひっそりと静かだ。私はベッドに身を預け、昨夜の記憶を反芻していた。遥さんの息の温もり、タオルの柔らかな感触。仕事の疲れが抜けきらない身体に、そんな淡いざわめきが残っている。点滴は続いていたが、体温計の針は微かに上がっていた。医者からは「熱がぶり返す可能性がある」と注意を受け、安静を強いられていた。

 ノックがされ、遥さんが入ってきた。白衣姿は変わらず、黒髪を後ろでまとめ、穏やかな笑みを浮かべている。夜勤の彼女は、昨日より少し疲れた様子に見えたが、目元に優しい光があった。

「浩太さん、こんばんは。今夜も私が担当します。体調はどうですか?」

 名前を呼ばれる響きに、胸の奥がわずかに疼く。昨日と同じ親しげなトーンだ。私は頷き、声を抑えて答えた。

「昨日よりはマシですが、熱っぽくて。汗も出ます」

 実際、午後から体温が上がり、喉の渇きが強くなっていた。遥さんはカルテを確認し、眉を寄せた。プロフェッショナルな仕草が、安心感を与える。

「少し熱が上がっていますね。氷で冷ましましょう。まずは水分補給から」

 彼女はトレイを準備し、氷の入ったコップを持ってきた。スプーンで氷をすくい、私の口元に運ぶ。冷たい粒が唇に触れ、溶けゆく感触が心地よい。だが、何度か繰り返すうちに、喉の奥まで届きにくいことに気づいた。ベッドに横たわる姿勢のせいだ。

「すみません、うまく飲み込めなくて」

 私が呟くと、遥さんは一瞬考え込んだ。トレイの氷を見つめ、静かに息を吐く。部屋の空気が、わずかに張りつめる。

「それなら……少し特別な方法で。看護のテクニックですよ。浩太さん、嫌じゃなければ」

 彼女の声は穏やかだが、瞳に微かな揺らぎがあった。私は戸惑いつつも、頷いた。信頼できる人だ。昨日の一瞬の親密さが、そんな確信を生んでいた。

 遥さんは氷を一つ、口に含んだ。頰がわずかに膨らみ、唇が湿る。ゆっくりとベッドサイドに身を寄せ、私の顔に近づく。距離が縮まるにつれ、彼女の息が感じられる。温かく、甘い湿り気が、先走るように空気を満たす。シャンプーの香りと、微かなミントの清涼感。心臓の鼓動が、速くなる。

 唇が、触れそうな近さで止まった。彼女の吐息が、私の唇にふわりと絡む。冷たい氷の感触が、口の中で溶け始め、滴が一筋、彼女の唇端から零れる。私は息を潜め、視線を合わせた。遥さんの瞳は、静かな湖のように深く、互いの息が混じり合う。

「ん……」

 小さく息を漏らし、彼女は唇を寄せた。氷の冷たさが、直接伝わる。口移しのように、溶けた水滴が私の唇に流れ込む。甘い。彼女の唾液が混じった、微かな塩味と甘みが、舌先に広がる。息の湿りが、絡みつくように熱を帯び、胸のざわめきを煽る。身体が、わずかに震えた。

 一滴、また一滴。遥さんはゆっくりと氷を溶かし、私に渡す。唇が触れそうで触れない距離を保ちながら、視線が深く絡む。彼女の息が、私の首筋まで降りてくる。昨夜の記憶が蘇り、肌が熱を持つ。こんな方法で、熱を冷ますなんて。日常の延長で、こんな親密さが許されるのか。だが、拒否など考えられなかった。むしろ、もっと欲しいという疼きが、静かに芽生えていた。

 氷が溶けきるまで、数分が過ぎた。遥さんはようやく口を離し、トレイのそばに戻った。頰がわずかに上気し、唇を指先で拭う仕草が、色っぽい。部屋の空気は、甘く重たく淀んでいた。

「どうでしょう、少し楽になりましたか? 熱が上がると、こんな風に水分を直接届けるんです。昔の看護の知恵ですよ」

 彼女の声は平静を装っているが、息が少し乱れている。私は喉を湿らせ、言葉を探した。

「ええ、すごく……冷たくて、甘かったです。ありがとう、遥さん」

 名前を呼ぶと、彼女の目が細まる。互いの視線が、再び絡みつく。夜の病室は、二人きりの世界。外の雨音が、秘密を包むように響く。

 遥さんは椅子を引き寄せ、座った。昨日と同じように、雑談が始まる。だが、今夜は空気が違う。言葉の端々に、息の記憶が忍び込む。

「浩太さん、熱が出やすい体質なんですね。私も昔、残業続きでそうでした。広告の仕事って、夜更かしが当たり前で」

 私は頷き、自分の日常を重ねた。ビール片手の帰宅、孤独な夜。彼女の話は、休日のワインタイム、カフェの読書。共通の疲れが、絆のように感じられる。

「夜勤って、こんな時間に誰かと話せて、いいですよね。浩太さんと昨日話せて、嬉しかったんです」

 遥さんの言葉に、胸が温まる。視線が、唇に落ちる。氷の甘い余韻が、まだ残っていた。

 ふと、体温計を測り直した。熱は少し下がっていたが、私の身体の内側は、別の熱で満ち始めていた。遥さんはカルテを記入し、立ち上がった。

「まだ熱が残っていますね。この熱、どうやって冷ましましょう?」

 囁くような声で、彼女は微笑んだ。瞳に、期待を誘う光が宿る。ドアが閉まる直前、その視線が私を捕らえた。雨音が深まり、病室に静寂が戻る。私は目を閉じたが、唇の感触が、疼きを増幅させた。明日の夜、何が起こるのか。淡い期待が、身体全体を包み込んだ。

(約2050文字)