この作品は18歳未満の方の閲覧を禁止します。フィクションであり、現実の人物・事件とは一切関係ありません。
## 第1話:デスク越しの微かな震え
オフィスの空気は、平日の夕暮れの重たい静けさに満ちていた。窓辺のブラインドがわずかに揺れ、外の街灯が淡く差し込む。美咲はデスクに座り、モニターの光に顔を寄せていた。三十五歳。部署の課長補佐として、五年ほどこのフロアを統括する。左手の薬指に嵌るシンプルなプラチナのリングが、キーボードを叩くたび、かすかに光を反射する。夫との結婚生活は十年目。穏やかで、予測可能な日々だった。
午後五時を過ぎ、ほとんどの同僚が帰宅の足音を残して去った頃、人事から連絡が入った。新メンバーの配属だ。美咲は資料を閉じ、背筋を伸ばす。ドアが開く音が、静寂を裂いた。
「失礼します。今日からお世話になります、拓也です」
入ってきた男は、二十八歳。背が高く、細身の体躯にスーツが自然に馴染んでいる。黒髪を短く整え、目元に柔らかな影を落とす。美咲は立ち上がり、軽く頭を下げた。
「美咲です。課長補佐をしています。よろしく」
握手はなかった。ただ、互いの視線が一瞬、交錯する。拓也の瞳は深く、静かだった。まるで、何かを探るように。美咲はすぐに目を逸らし、デスクの端を指差した。
「こちらの席を使ってください。まずはこのプロジェクトの資料を。分からない点は、いつでも」
彼は頷き、席に着く。デスクは美咲の斜め向かい、距離は二メートルほど。モニター二台が並ぶ中間線のように、互いの存在を隔てる。美咲は再び画面に向かったが、指先がキーを叩くリズムに、わずかな乱れが生じていた。
最初は、何でもなかった。拓也が資料をめくる音。ページをスクロールするマウスのクリック。美咲の視界の端に、彼の横顔が映る。鼻筋のライン、耳朶の柔らかな曲線。集中しようと、彼女は唇を軽く噛んだ。だが、ふと気づく。彼の視線が、こちらに向いている。
デスク越しに、絡みつくように。美咲は資料の数字を追っていた手を止め、ゆっくりと顔を上げた。拓也の目は、モニターから離れ、彼女の顔を捉えていた。直接、ではない。少しずれた角度で、頰の辺りをなぞるように。息が、一瞬、止まる。
「何か、分からないところは」
美咲の声は、いつもより低かった。拓也は慌てて目を伏せ、資料に視線を戻す。
「いえ、大丈夫です。美咲さんの資料、読みやすいです」
その返事の後、沈黙が落ちた。オフィスの時計が、秒針を刻む音だけが響く。美咲は息を吐き、指を組んだ。薬指のリングが、冷たく肌に触れる。だが、心臓の鼓動が、わずかに速くなっていた。なぜだろう。この男の視線が、ただの業務的なものではない気がした。探るような、熱を孕んだ何か。
彼女は再び仕事に戻る。メールの返信。数字の確認。だが、指先が震える。キーボードの上で、親指が微かに揺れた。気づかれないよう、彼女は手を膝の上に落とした。膝の上で、指が絡み合う。熱い。掌が、じんわりと湿っていた。
拓也の喉が、動いたのが見えた。唾を飲み込むような、かすかな仕草。美咲の視線は、そこに留まる。彼の首筋のライン、喉仏が影を落とす。スーツの襟元から覗く肌が、白く、滑らかだ。彼女は目を逸らそうとしたが、遅かった。視線が、再び絡まる。
今度は、拓也が先に目を伏せなかった。じっと、美咲の顔を見つめ返す。唇の端が、わずかに上がる。笑みか、それとも。美咲の息が、浅くなる。胸の奥で、何かが疼き始める。デスクの距離が、急に近く感じられた。空気が、薄く、重くなる。
「美咲さん、この表の数字、確認していただけますか」
拓也の声が、低く響く。彼はプリントアウトした紙を、ゆっくりと差し出す。美咲は手を伸ばし、指先が紙の端に触れる。紙越しに、彼の指が近い。触れそうで、触れない。熱が、伝わってくるようだった。彼女の指が、震えた。紙を受け取り、視線を落とす。数字など、見えていない。
「ここ、合っていますね」
声が、かすれる。拓也は頷き、席に戻る。その背中を、美咲は見つめた。肩のライン、腰のくびれ。スーツの下に潜む筋肉の気配。息が、途切れる。オフィスの空調が、肌を撫でるように冷たい風を送るが、彼女の頰は熱い。首筋が、じりじりと疼く。
沈黙が続く。互いのキーボードの音だけが、響き合う。美咲はモニターに集中しようとするが、視界の端に拓也の存在が、常にあった。時折、彼の視線を感じる。デスク越しに、絡みつく。彼女の指先が、再び震える。膝の上で、爪が掌に食い込む。
外の街灯が、窓に影を落とす。オフィスは二人きり。平日の夕暮れの静けさが、距離を濃くする。美咲の心臓が、静かに、速く鳴る。この視線は、何を意味するのか。業務か、それとも。ためらいが、胸に溜まる。息が、浅く途切れる。
拓也が立ち上がり、資料を棚に戻す。その足音が、フロアに響く。美咲は見上げず、ただ耳を澄ます。背後に彼の気配。体温が、空気に溶け出すよう。彼女の背筋が、ぞくりと震えた。
「今日はこれで、失礼します」
拓也の声。美咲は顔を上げ、微笑む。
「明日もよろしく」
彼の視線が、最後に絡む。ドアが閉まる音。オフィスに、静寂が戻る。美咲はデスクに肘をつき、息を吐いた。指先が、まだ震えている。薬指のリングが、冷たい。だが、肌の奥が、熱く疼く。日常の距離が、微かな熱を帯び始めていた。
この疼きは、どこへ向かうのか。
(第1話 終わり)
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