この作品は18歳未満の方の閲覧を禁止します。フィクションであり、現実の人物・事件とは一切関係ありません。
## 第2話:残業の気遣い、壁越しの溜息
翌朝のオフィスは、雨上がりの湿った空気が窓から入り込み、空気が淡く曇っていた。平日特有の重い空気の中で、俺はデスクに座り、昨夜の余韻を振り払うようにコーヒーを啜った。彩乃はすでに席に着き、俺のスケジュール表を広げて確認している。ネイビーのブラウスが肩に沿うように、動きごとに生地が微かに擦れる音がする。
「おはようございます、課長。昨日の続きから始めましょうか」
彼女の声は穏やかで、視線を上げると軽く微笑む。昨夜の壁越しの気配が脳裏に浮かぶが、俺は平静を装い、頷いた。彩乃の気遣いは、すぐに日常に溶け込んだ。午前中のミーティングで、俺の資料に付箋を貼り、要点をさりげなくメモ。昼近くになると、水筒からお茶を注いでくれる。
「課長、午後の会議でこれが必要でした。予備も作っておきました」
細長い指がカップを差し出し、爪の淡い光が揺れる。指輪が朝の光にきらりと輝き、人妻の現実を思い起こさせる。俺は受け取りながら、彼女の瞳に一瞬の深みを捉えた。夫のいない日常を、こんな細やかな動作で埋めているのか。感謝の言葉を返しつつ、胸の奥で微かなざわめきが広がる。
午後、部下の報告が長引き、残業の気配がオフィスに漂い始めた。外はすでに夕暮れの闇が濃く、街灯がぼんやりと灯る。彩乃は黙々と書類をまとめ、俺の隣でパソコンを叩く。デスクが狭く、肩が触れそうになる距離。彼女の息づかいが、かすかに聞こえる。
「課長、このグラフの数字、確認をお願いします」
彩乃が身を寄せ、画面を指差す。肩が軽く触れ合い、柔らかな温もりが伝わる。ブラウス越しに感じる体温が、俺の肌を熱くする。一瞬、動きが止まり、互いの視線が絡む。彼女の瞳に、わずかな揺らぎ。すぐに離れるが、その感触が残る。
「ええ、問題ない。ありがとう、助かるよ」
声が少し低くなる。彩乃は頰を赤らめず、淡々と続けるが、指先がキーボードで僅かに震えたように見えた。残業の静かなオフィスで、時計の針がゆっくり進む。外の雨音が、二人だけの空間を包む。肩の触れ合いが、日常の延長で生まれた偶然か、それとも。俺は視線を資料に戻すが、彼女の香りが鼻腔に残る。フローラルで、ほのかに甘い。
終電間際、ようやく片付いた。彩乃がコートを羽織り、俺に頭を下げる。
「お疲れ様でした。明日もよろしくお願いします」
「こちらこそ。気遣い、感謝してるよ。帰りは気をつけて」
エレベーターで別れ、マンションに戻る頃には夜が深まっていた。廊下の蛍光灯が冷たく、足音だけが響く。俺の部屋に入り、ベランダの窓を開けると、湿った風が入ってきた。向かいのベランダに、彩乃の姿。彼女も煙草をくわえ、街の灯りを眺めている。目が合い、軽く手を挙げる。
「こんばんは、課長。お疲れ様です」
声が風に乗って届く。俺はビールを片手に、柵に寄りかかった。
「彩乃さんも。残業、遅くなったね」
「ええ。でも、課長のお役に立てて良かったです」
互いのベランダは数メートル。生活音が筒抜けの距離だ。彼女の指輪が街灯に光り、煙を吐く仕草が優雅に見える。人妻の輪郭が、夜の闇に浮かぶ。会話は他愛ない、天気や仕事の話。だが、視線が交錯するたび、抑えきれない熱が募る。肩の感触、オフィスの息づかいが蘇る。
部屋に戻り、壁に耳を澄ます習慣がつき始めていた。隣室から、水の流れる音、衣ずれの気配。夫のいない夜、彼女の独りが想像される。俺の体が熱くなり、ベッドに横になる。静けさの中で、互いの存在が意識される。ベランダの視線が、壁一枚の距離をより近く感じさせる。
数日が過ぎ、平日の夜が続く。職場では彩乃の気遣いが深まる。資料を渡す時、指先が触れ、視線が長く留まる。残業が増え、肩の触れ合いが日常化。オフィスの蛍光灯の下で、彼女の首筋に汗が光るのを見る。帰宅後のベランダで、目が合う回数が増えた。言葉は少なく、ただ視線が絡む。指輪の光が、禁忌の輝きのように見える。
ある晩、雨が激しく降る夜だった。帰宅し、シャワーを浴びてベッドに就く。外の風が窓を叩き、部屋が湿気を帯びる。隣室の気配が、いつもより濃く感じられた。カチッとドアの音、足音が止まり、静寂が訪れる。
ふと、壁越しにため息が聞こえた。低く、抑えきれないような息。彩乃の声か。続いて、微かな衣ずれ。ベッドの軋みか、それとも俺の耳が過敏か。ため息が再び、重く響く。夫のいない部屋で、彼女の体が疼いているのか。オフィスの肩、ベランダの視線が、繋がる。
俺の息が荒くなり、手がシーツを握る。夜の静けさに、甘い疼きが体全体に広がる。この距離が、いつまで持つか。ため息が、壁を越えて俺の肌に染み込む。
(第2話 終わり)
(約2050字)