篠原美琴

隣室上司の揺らぐ沈黙(第2話)

この作品は18歳未満の方の閲覧を禁止します。フィクションであり、現実の人物・事件とは一切関係ありません。

## 第2話:共有ポストの揺らぐ視線

 翌朝の職場は、いつも通り空気が張り詰めていた。午前のミーティングで、美咲の視線が私を捉える。黒髪を耳にかける仕草さえ、完璧に制御されたものだ。「佐倉君、そこは甘い。やり直しなさい」。彼女の声は低く、抑揚を欠く。周囲の同僚が息を潜め、私はただ頷いた。沈黙で従うしかない。彼女の瞳は氷のように澄んで、しかしその奥に、昨夜の壁越しの息づかいが重なる。隣室の彼女は、どんなリズムで息を潜めていたのか。視線を落とすと、私の頰がわずかに熱を持つ。

 デスクに戻り、資料を修正する指先が、微かに震えた。美咲の指示は的確で、容赦ない。だが、廊下でのあの柔らかな影が、脳裏に残る。職場では厳しい線が引かれているのに、家では一瞬、緩む。彼女も、私の存在を意識しているだろうか。午後の陽が窓から差し込み、モニターの光に彼女のシルエットが映る。クールな横顔。唇の端が、動かない。

 退勤の時間。平日暮れ時の街は、雨上がりの湿気を帯び、街灯がぼんやりと灯り始める。マンションに戻ると、エレベーターの扉が静かに開く。5階の廊下は、足音一つない静寂。共有ポストの前に差し掛かった瞬間、隣のドアが開いた。美咲だった。黒のコートを羽織り、手に封筒を握っている。彼女の視線が、私に落ちる。

 一瞬、時間が止まる。クールな瞳が、わずかに揺れた。氷の表面に、細かなひびが入るように。彼女は言葉を発さず、ただポストに視線を移す。私は鍵束を握ったまま、動けない。距離は一メートルほど。コートの裾が、かすかに揺れる。彼女の息が、聞こえるほど近い。平日夜の薄暗い廊下に、互いの気配が満ちる。街灯の光が、彼女の頰に淡い影を落とす。

 美咲は封筒をポストに滑り込ませ、ゆっくりと顔を上げる。瞳が再び私を捉える。一瞬の揺らぎの後、クールな仮面が戻る。無言で、わずかに体を引く。距離を保つ仕草。私は頷くように頭を下げ、彼女も軽く目線を落とす。言葉はない。踵を返し、互いのドアへ。鍵の音が、廊下に小さく響く。彼女のドアが閉まる音が、私の背に刺さる。

 部屋に入り、鍵をかける。静寂が降りる。ソファに腰を下ろすと、すぐに隣室の気配が伝わってくる。壁一枚隔てた向こうで、布ずれの音。コートを脱ぐような、柔らかな響き。息を潜めると、かすかな吐息が聞こえる。規則正しく、しかしどこか途切れ途切れ。共有ポストでのあの視線が、鮮やかによみがえる。揺らぐ瞳。距離を保ちながら、触れられない熱。

 私は壁に手を触れる。薄い仕切りが、わずかに振動する。彼女の気配が、じわりと染み込んでくる。夕刻の闇が部屋を満たし、カーテン越しに街灯の光が揺れる。美咲の部屋で、何をしているのか。ワイングラスを傾ける音か、それともソファに沈む重みか。想像が、肌を熱くする。頰が火照り、首筋に汗がにじむ。触れられない距離で、全身が疼く。

 職場での厳しい指示が、ここでは違う色を帯びる。沈黙で従う私の姿を、彼女はどう見ていたのか。ポスト前での無言の距離が、心の隙間を広げる。彼女の瞳の揺らぎが、忘れられない。一瞬の柔らかさ。クールな仮面の下で、何が蠢いているのか。

 夜が深まる。ベッドに横たわると、隣室の息づかいが鮮明になる。微かなリズムの変化。抑えられた吐息が、壁を越えて届く。私の息も、合わせるように乱れる。肌が熱を持ち、シーツに指を絡める。互いの沈黙が、絡みつく糸のように。彼女も、この気配を感じているはずだ。壁越しの熱が、静かに膨らむ。

 翌朝、エレベーターで鉢合わせるかもしれない。その密室で、息が途切れる瞬間が、待ち遠しく、恐ろしい。

(約1980字)