篠原美琴

隣室上司の揺らぐ沈黙(第1話)

この作品は18歳未満の方の閲覧を禁止します。フィクションであり、現実の人物・事件とは一切関係ありません。

## 第1話:壁越しの微かな息づかい

 引っ越しの荷解きを終えたのは、夕暮れが窓辺を淡く染める頃だった。28歳の私、佐倉悠人は、このマンションの5階角部屋を選んだのは、静かな環境を求めてのことだ。地方から上京して数年、職場での慌ただしさを振り払うには、こんな場所がちょうどいい。エレベーターの扉が静かに閉まる音だけが、廊下に響く平日暮れ時。街灯の光がぼんやりと差し込み、足音さえ控えめな空気だ。

 荷物を片付けながら、隣室から微かな物音が聞こえてきた。壁一枚隔てた向こうで、何かが擦れるような、かすかな響き。引っ越しの挨拶をしようかと迷ったが、まずは部屋の空気に慣れようと思い直す。夕食の支度を始め、台所で湯気を立てる鍋の音に耳を澄ます。するとまた、あの音。柔らかな布ずれのような、息を潜めた気配。

 翌朝、出勤前に意を決して廊下へ出た。共有ポストの前で、ちょうど隣のドアが開く。そこに立っていたのは、信じがたいことに、私の上司、藤堂美咲だった。32歳の彼女は、職場ではクールビューティーと陰で囁かれる存在。黒髪をきっちりまとめ、シャープなスーツに身を包み、部下のミスを一瞥で射抜くような視線を向ける。今日もその瞳は、氷のように澄んでいた。

「佐倉君……ここに越してきたの?」

 彼女の声は低く、抑揚を抑えたものだった。私は一瞬言葉を失い、ただ頷くしかなかった。美咲はわずかに眉を寄せ、視線を逸らさず私を観察した。職場での彼女はいつも厳しく、指示は短く的確。私の提案を「甘い」と一蹴したあの会議の記憶がよみがえる。あの視線は、容赦なく心の隙を突いた。

 だが、家でのこの距離では、何かが違う。廊下の薄明かりの下、彼女の瞳に柔らかな影が差す。唇の端が、ほんの一瞬、緩んだように見えた。いや、気のせいか。

「ご挨拶が遅れました。藤堂です。よろしく」

 そう言って、彼女は軽く頭を下げ、踵を返した。エレベーターに向かう後ろ姿は、職場と同じく完璧な直線。だが、ドアが閉まる直前、振り返った彼女の視線が、私の胸に刺さった。いつもより、わずかに長い。

 職場ではいつも通りだった。午後のミーティングで、美咲の指示が飛んだ。「佐倉君、そこはもっと詰めろ」。冷たい視線が私を射抜いた。周囲の空気が張り詰め、誰も口を挟めない。私はただ、沈黙で従った。彼女の瞳は厳しく、しかしその奥に、昨夜の微かな物音を重ねてしまう。隣室の彼女は、どんな顔をしているのだろう。

 帰宅は、雨上がりの湿った空気の中。平日夜のマンションは、静寂に包まれている。鍵を開け、部屋に入ると、すぐに隣からあの音がした。かすかな息づかい。壁に耳を寄せなくても、伝わってくる。規則正しい、しかしどこか乱れたリズム。美咲の部屋で、何をしているのか。想像が、勝手に膨らむ。

 私はソファに腰を下ろし、壁を見つめた。薄い仕切り一枚。彼女の存在が、じわりと染み込んでくる。夕刻の薄闇が部屋を満たし、街灯の光がカーテンを透かす。息を潜めると、隣の気配が鮮明になる。布ずれの音。かすかな吐息。抑えられた、しかし熱を帯びた響き。

 職場での厳しい視線が、ここでは違う色を帯びる。柔らかく、揺らぐ。彼女も、私の存在に気づいているだろうか。壁越しに、互いの沈黙が絡みつく。肌が、わずかに熱を持つ。触れられない距離で、心がざわつく。

 その夜、ベッドに横たわると、隣室の息づかいが途切れ途切れに聞こえてきた。静かな夜の闇に、微かな熱が満ちる。明日の朝、廊下でまた会うかもしれない。その時、彼女の瞳はどう揺れるのか。

 廊下での偶然の遭遇が、静かに心を掻き乱し始めていた。

(約1950字)