芦屋恒一

長髪の視線が絡む公開の夜(第1話)

この作品は18歳未満の方の閲覧を禁止します。フィクションであり、現実の人物・事件とは一切関係ありません。

## 第1話:取引先の揺れる黒髪

 平日の夕暮れ、街の喧騒がオフィス街のビルに溶け込む頃、私はいつものように取引先の会議室に腰を下ろしていた。58歳の会社員、恒一。長年、責任ある立場を背負い、家族の生活を支え、淡々と日々をこなしてきた。感情を表に出すことは滅多になく、商談の席でも冷静さを保つのが私の流儀だ。

 今日の相手は、中堅の商社。資料を広げ、部下の報告を聞きながら、窓辺に視線を移す。外は薄曇りで、街灯がぼんやりと灯り始めていた。静かな平日らしい空気。そこに、ドアが静かに開く音が響いた。

 入ってきたのは、35歳の女性、遥だった。彼女はマーケティング部の主任として、今回の案件を担当する。長い黒髪が肩から背中まで優しく流れ、歩くたびに軽やかに揺れる。その髪は、照明の下で艶やかに輝き、まるで夜の闇を湛えた絹糸のようだった。私は一瞬、視線を奪われた。普段、そんなことに気を取られる性分ではないのに。

「芦屋様、今日はお時間をいただきありがとうございます。遥と申します。どうぞよろしくお願いいたします」

 彼女の声は穏やかで、低く響く。細身のスーツに包まれた体躯は、洗練された大人の女性そのもの。年齢を感じさせないしなやかさがありながら、目元には人生の重みを湛えた深みがあった。私より23歳年下。だが、その視線は対等に、むしろ私を静かに値踏みするように絡みつく。

 商談が始まった。資料をめくり、数字を交わす。彼女の提案は現実的で、こちらの懸念点を先回りして解消するものだった。私は慎重に質問を重ねる。市場の変動、競合の動向、長期的なリスク。言葉を交わす中で、自然と互いの境遇が垣間見えた。

「芦屋様のおっしゃる通り、最近の景気は予測しにくいですね。私もこの部署に異動して二年、独身で仕事に没頭する日々です。プライベートのことは……まあ、割り切っています」

 遥が軽く微笑みながら言った。長い髪を指先で軽くかき上げ、耳にかける仕草。その瞬間、首筋の白い肌が露わになり、かすかな香水の匂いが漂う。私は喉を鳴らすのを堪え、視線を資料に戻した。彼女の言葉には、どこか現実の孤独が滲んでいた。私も同じだ。妻とは長年のすれ違い、子供たちは独立し、家は静かすぎる。仕事が人生の大部分を占める日々。だが、そんな共通点を口にするのは、商談の場では不適切だ。

 議論は順調に進み、合意点が見えてきた。時計は19時を回り、窓外はすっかり夜の帳に包まれていた。会議室の照明が柔らかく二人を照らし、互いの影が壁に長く伸びる。遥の髪が、時折息づかいに合わせて揺れ、私の視界の端を優しく撫でるようだった。あの髪に触れたら、どんな感触だろう。指を通せば、滑らかな波のように体を伝うだろうか。そんな妄想が、頭の片隅を掠める。抑制せねばならない。58歳の私が、35歳の女性に動揺するなど、軽率極まりない。

「では、本日の件で基本合意とさせていただきます。詳細はメールでまとめますね」

 私が締めくくると、遥は頷き、資料を丁寧に束ねた。私たちは立ち上がり、握手を交わす。彼女の手は細く、温かく、私の掌に残る温もりが、わずかに脈打つようだった。別れ際、ドアのところで彼女が振り返った。長い髪が肩に落ち、街灯の光を受けて輝く。

「芦屋様、個人的に……お会いになりませんか? 商談以外の話も、ゆっくり聞かせてください」

 彼女の声は囁くように低く、視線が私の胸に深く沈み込む。髪を耳にかけ直す仕草で、首筋が再び露わになる。私は言葉を失い、ただ頷くしかなかった。胸の奥に、静かな疼きが広がる。あの長い髪の揺れが、夜の闇に溶けゆく姿が、脳裏に焼きつく。

 オフィスを出て、タクシーに乗り込む頃、雨がぽつりと降り始めた。窓ガラスに映る自分の顔は、いつもより熱を帯びているようだった。この疼きは、何を予感させるのか。次に会う時、私はどうなるのだろう。

(1987文字)