この作品は18歳未満の方の閲覧を禁止します。フィクションであり、現実の人物・事件とは一切関係ありません。
## 第1話:ジャケットの微かな残香
平日の夕暮れ、街灯がぼんやりと灯り始める頃。美香は浩一のマンションの前に立っていた。28歳の彼女は、夫の拓也から頼まれた書類を届けるためだった。拓也の同僚である浩一、35歳。仕事で顔を合わせることはあっても、こうして一人で訪れるのは初めてだ。
エレベーターの扉が開き、浩一が現れる。背の高い体躯に、くたびれたジャケットを羽織った姿。夕方の湿った空気が、彼の周りに薄くまとわりついている。
「悪いね、急に。拓也の代わりか」
浩一の声は低く、静かだった。美香は小さく頷き、玄関をくぐる。室内は薄暗く、カーテンが半分引かれ、街の喧騒が遠くに聞こえるだけ。ソファに腰を下ろすよう促され、美香は鞄から書類を取り出す。
浩一がジャケットを脱ぎ、壁のフックに掛けた。その瞬間、空気に微かな揺らぎが生じた。汗の混じった、男らしい匂い。仕事の疲れを帯びた、かすかに塩辛い熱気が、鼻腔をそっと撫でる。美香の息が、一瞬、止まった。
書類を渡す手が、わずかに震える。浩一はそれに気づかぬ様子で、テーブルに肘をつき、内容を確認し始める。沈黙が部屋を満たす。美香の視線は、無意識にジャケットへ。掛かった布地から、匂いがゆっくりと立ち上る。甘く、重い。肌の奥が、かすかに疼き始める。
浩一の指が書類をめくる音だけが、静寂を刻む。美香は目を逸らそうとするのに、視線が彼の首筋に留まる。シャツの襟元から覗く肌。そこにも、同じ匂いが宿っている気がした。息を吸うたび、鼻腔に染み入る。熱い。夫の匂いとは違う、荒々しくも繊細な残り香。
「これで大丈夫だ。ありがとう」
浩一が顔を上げ、視線が絡む。瞳の奥に、わずかな揺らぎ。美香の頰が、熱を持つ。言葉が出てこない。沈黙が、二人の間に薄い膜のように張り詰める。浩一の息が、ゆっくりと吐き出される。美香の胸が、上下に揺れる。肌が、熱く疼く。触れていないのに、指先が空気を掴むように震える。
浩一の視線が、彼女の唇に落ちる。一瞬の、息の途切れ。美香の喉が、乾く。匂いが強くなる。ジャケットから、浩一の体温が、部屋全体に広がるようだ。心臓の鼓動が、耳元で響く。沈黙の中で、互いの視線が絡みつく。離せない。肌の奥が、甘く溶け始める。
「遅くなったな。気をつけて帰れよ」
浩一が立ち上がり、ジャケットを手に取る。その仕草で、再び匂いが舞う。美香は慌てて立ち上がり、玄関へ向かう。背中に、浩一の視線を感じる。ドアが閉まる瞬間、振り返ると、彼の瞳がまだそこに。沈黙の余韻が、肌に残る。
マンションを出て、夜の街を歩く。風が頰を撫でるのに、鼻腔に浩一の残り香がこびりついている。歩くたび、蘇る。あの汗の熱気。視線の重み。美香の足取りが、わずかに乱れる。
家に着くと、拓也がリビングでくつろいでいた。いつもの穏やかな笑顔。
「おかえり。浩一のとこ、大丈夫だった?」
「うん……問題ないよ」
美香は微笑み、キッチンへ向かう。夕食の支度をし、夫の隣に座る。テレビの音が流れる中、拓也の肩が触れる。いつも通りの温もり。でも、鼻腔に残るのは、あの匂い。浩一の。汗混じりの、男らしい残り香が、脳裏に蘇る。
拓也がビールを飲み、息を吐く。その匂いは、穏やかで馴染み深い。なのに、美香の息が、浅くなる。肌が熱い。指先が、無意識にスカートの裾を握る。浩一のジャケット。視線の沈黙。あの疼きが、下腹部にじわりと広がる。夫の隣で、息を潜める。熱が、溜まる。抑えきれない、空白の疼き。
夜が深まる。拓也の寝息が聞こえ始める頃、美香の心は、まだあの残り香に震えていた。
(第2話へ続く)
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