芦屋恒一

受付嬢の吐息が溶かす距離(第2話)

この作品は18歳未満の方の閲覧を禁止します。フィクションであり、現実の人物・事件とは一切関係ありません。

## 第2話:カウンター下の吐息の温もり

 一ヶ月が、意外に長く感じられた。あの夕暮れの記憶が、夜毎に蘇る。仕事のデスクで資料をめくりながらも、遥の微笑みが視界の端に浮かぶ。55歳のこの身に、こんな静かな渇望が忍び寄るとは。抑制を保ちつつ、再診の日を待った。平日の夕方、残業の気配が街に漂う頃合いを選んで、病院の自動ドアを押し開けた。

 待合室はやはり閑散としている。壁際の時計が、静かに針を進める音だけが響く。カウンターに近づくと、遥がいた。名札の文字が、照明の下でくっきり。黒髪を後ろで軽くまとめ、淡いグリーンのブラウスが、肩のラインを優しく描いている。だが、今日は少し違う。目尻に疲れの影が差して、唇の端がわずかに緩んでいる。残業の後片付けか、カウンターに散らばった書類を整理する手が、ゆっくりと動く。

「こんにちは、芦屋様。今日は再診ですね。お待ちの時間、短いです」

 声は変わらず柔らかく、しかしかすかな息の重みが加わっている。カウンター越しに予約票を受け取りながら、私は彼女の瞳を見る。茶色の奥に、日常の疲労が溶け込んでいる。微笑みが、いつもより控えめだ。

「ええ、ありがとう。今日はお疲れのようですね。残業ですか」

 自然に言葉が出た。彼女の指が予約票をスキャンする間、視線が絡む。カウンターの厚みが、二人の距離を保っているが、息遣いが近い。彼女の胸元が、静かに上下する。

「はい、少し書類が多くて。平日遅くまで、こんな感じです。でも、芦屋様のお顔を見ると、元気が出ますよ」

 微笑みが戻る。目尻の皺が、深みを増す。28歳の肌は、疲れさえも艶やかに見せる。診察室へ向かう階段を上りながら、心臓の鼓動が少し速まる。あの名刺を渡した手応えが、今も指先に残るようだ。

 診察はいつも通り。数値の安定を告げられ、医師の言葉に頷く。だが、頭の中は遥の疲れた表情で満ちている。帰り際、再びカウンターへ。他のスタッフの姿はなく、彼女一人。外はすっかり夕闇に包まれ、街灯の光が窓ガラスに反射している。カウンターの向こうで、遥がコーヒーカップを手にしているのが見えた。

「芦屋様、お疲れ様でした。今日は少し遅くなったので、コーヒーでもいかがですか? 待合室でお飲みになってからお帰りください」

 カップを差し出される。湯気が立ち上り、ほのかな苦い香りが漂う。カウンターの上に置かれたそれを、私は受け取ろうと手を伸ばす。彼女も同じタイミングでカップを支える。指先が、カウンターの下で触れ合う。布地の下、温かな感触。細い指の柔らかさが、電流のように伝わる。一瞬、互いの視線が落ちる。離さない。彼女の吐息が、カウンターの隙間からかすかに感じられる。温かく、湿った空気。

「ありがとう……遥さん」

 名前を呼ぶ。自然に、親しげに。彼女の指が、わずかに私の指に絡むように動く。離すタイミングを、どちらも探っているようだ。カウンターの影で、二人の手が静かに重なる。肌の熱が、じわりと広がる。

「芦屋様の名刺、拝見しました。健康相談、いつでもどうぞ。私の方こそ、相談したくて」

 声が低くなる。疲れた瞳に、好奇の光が灯る。指先の触れ合いが、ようやく離れる。だが、その余韻が掌に残る。コーヒーを一口。熱い液体が喉を滑り、身体の芯を温める。彼女の視線が、カウンター越しに私を追う。

「実は、最近少し寝つきが悪くて。仕事のストレスかな……でも、芦屋様みたいな落ち着いた方とお話しすると、ほっとします」

 彼女の言葉に、胸がざわつく。28歳の彼女が、私の55歳を「落ち着いた」と評する。そのギャップが、甘い疼きを生む。私はカップを置き、ポケットからスマートフォンを取り出す。

「それはお互い様ですよ。遥さんの声、聞いているだけでリラックスします。連絡先、交換しませんか。相談の件で」

 自然な流れで、QRコードを表示する。彼女の瞳が輝く。自分の端末を取り出し、素早く読み取る。ピロンという音が、静かな受付に響く。交換完了。画面に「遥」の名前が並ぶ瞬間、心臓が強く打つ。

「これで、いつでもお話しできますね。……実は、プライベートでコーヒーでも、ご一緒しませんか? 残業の後、息抜きに」

 彼女の提案。微笑みが、唇の湿りを帯びて光る。吐息が、カウンターの縁に触れるように近い。指先の記憶が、蘇る。温かく、柔らかな感触。私の抑制が、わずかに揺らぐ。この歳で、こんな誘いに心が傾くとは。

「ぜひ。いつがいいですか」

 声が自然に出る。彼女の指が、カウンターの下で再び動く。軽く、私の手に触れる。意図的か、無意識か。肌の熱が、甘く伝わる。

「来週の平日夜、近くのラウンジでどうでしょう。私、終わり次第連絡します」

 約束の言葉。視線が絡み、互いの息が混じり合うような錯覚。カウンターの向こうで、彼女の胸元が少し速く上下する。28歳の吐息が、温かく私の肌を撫でるようだ。コーヒーの香りに混じり、かすかな甘い匂い。抑制された欲望が、静かに溶け始める。

 病院を出て、車に乗り込む。エンジンをかけ、街灯の並ぶ道を進む。ハンドルを握る手が、指先の感触を思い出す。遥の疲れた微笑み、触れた肌の柔らかさ。スマートフォンに届く通知を待つ胸の高鳴り。プライベートな約束の予感が、身体の芯を熱くする。

 あの吐息が、もっと近くで感じられたら。カウンターの距離を溶かす夜に、静かな渇望を残す。

(第2話 終わり)

(約2050字)