芦屋恒一

受付嬢の吐息が溶かす距離(第1話)

この作品は18歳未満の方の閲覧を禁止します。フィクションであり、現実の人物・事件とは一切関係ありません。

## 第1話:カウンター越しの柔らかな息遣い

 平日の夕暮れ、街の喧騒が少しずつ引いていく時間帯に、私はいつものように病院の自動ドアをくぐった。55歳のこの歳になると、定期健診は単なる義務ではなく、日常の小さな儀式のようなものだ。仕事の合間を縫っての訪問で、待合室は閑散としている。雑誌をめくる中年男性が一人、壁際の椅子に腰を下ろしているだけ。静かな空気に、かすかな消毒液の匂いが溶け込んでいる。

 受付カウンターに近づくと、彼女がいた。28歳くらいだろうか。名札に「遥」とある。黒髪を耳元で軽くまとめ、淡いピンクのブラウスが白い肌に溶け込むように着こなしている。カウンターの向こうで、穏やかな視線をこちらに向けた瞬間、心の奥底で何かが静かにざわついた。微笑みが、柔らかく弧を描く。派手さはない。ただ、目尻のわずかな皺が、大人の女性の深みを湛えている。

「こんにちは。ご予約のお名前をお伺いしてもよろしいでしょうか」

 その声は、予想以上に柔らかかった。カウンターの厚みを隔てて届く響きが、耳の奥に甘く染み入る。吐息のような、かすかな湿り気が想像される。健康診断の予約票を差し出しながら、私は自然と視線を合わせた。彼女の瞳は、穏やかな茶色。カウンターの縁に指を添え、予約を確認する仕草が、洗練されている。

「はい、こちらです。お待ち時間は短めですよ。奥の待合でお待ちください」

 微笑みが深まる。唇の端がわずかに湿って光るのが、夕暮れの照明に映えた。カウンターのガラス面に、彼女の息が一瞬曇る。診察室へ向かう階段を上りながらも、その記憶が頭から離れない。なぜだろう。この歳になって、こんなささやかな出会いに心が揺らぐとは。

 診察はいつも通り、淡々と進んだ。血圧、心電図の数値は安定。医師の言葉に頷きながらも、頭の片隅に彼女の顔が浮かぶ。帰り際、再び受付へ。カウンターに立つ遥は、他の患者がいない今、資料を整理している。背筋がすらりと伸び、ブラウスが肩のラインを優しく包んでいる。

「ありがとうございました。お気をつけてお帰りください」

 またあの声。カウンター越しに差し出される領収書を受け取りながら、私はふと思いついた。健康相談の名刺を、財布から取り出す。私の勤める会社の健康管理部門のものだ。さりげなく、カウンターの上に置いた。

「実は、最近少し体調のことで気になることがあって。もしよかったら、相談に乗っていただけますか。連絡先はここに」

 彼女の指が名刺に触れる。細い指先が、紙の上で一瞬止まった。視線が上がり、私の目を見つめる。微笑みが、わずかに濃くなる。

「ありがとうございます。健康相談、いつでもお受けしますよ。私、遥といいます。よろしくお願いします」

 名刺を小さなトレイに収めながら、彼女の唇が動く。息が漏れるような、柔らかな音。カウンターの向こうで、彼女の胸元が静かに上下する。28歳の肌は、照明の下でしっとりと輝いているように見えた。年齢差など、感じさせない自然さ。私の胸に、静かな疼きが広がる。

「お名前は?」

「はい、芦屋です。今日はお世話になりました」

 名刺を渡した手が、カウンターの上でわずかに重なる。触れはしない。ただ、距離が近い。彼女の吐息が、かすかにカウンターの隙間から漂ってくるような錯覚。甘く、温かい。診察の疲れが、一瞬で溶けていく。

 病院を出て、夕暮れの街を車で進む。街灯が一つずつ灯り始め、路地に長い影を落とす。車内のラジオが、静かなジャズを流している。家路につきながら、遥の顔が脳裏に浮かぶ。あの微笑み、唇の湿り気、声の柔らかさ。カウンター越しの距離が、なぜか肌に残る。首筋が、甘く熱を持つ。

 帰宅し、ソファに腰を沈める。グラスにウイスキーを注ぎ、一口。アルコールの熱が喉を滑るが、それ以上に疼くのは、彼女の記憶だ。唇の形、息遣いのリズム。指先でグラスをなぞりながら、想像する。あのカウンターの向こうで、彼女の吐息がもっと近くに感じられたら。抑制された欲望が、静かに積み重なる。この歳の男が、こんなにも心を掻き乱されるとは。

 次回の診察は、一ヶ月後。だが、それまで待てないかもしれない。名刺を渡した手応えが、胸をざわつかせる。遥の声が、耳に残る。柔らかな吐息が、夜の静寂に溶けていく。

 あの息遣いを、再び聞きたくてたまらない。

(第1話 終わり)

(約1950字)