如月澪

上司の視線に女装が溶ける(第1話)

この作品は18歳未満の方の閲覧を禁止します。フィクションであり、現実の人物・事件とは一切関係ありません。

## 第1話:ドレスの下で絡む視線

 平日の夜、オフィスのラウンジは街灯の柔らかな光が窓から差し込み、静かな喧騒に包まれていた。社内イベントの準備で残業が続いていた28歳のサラリーマン、健太は、テーブルの上に広げられた衣装の山を前に、ため息をついた。普段のスーツ姿とはかけ離れた、淡いピンクのドレスがそこにあった。

「健太くん、これ着てみてくれない? イベントの出し物で、女装担当が必要なのよ」

 声の主は35歳の上司、美香だった。部署のマネージャーとして、いつも冷静で洗練された佇まい。黒いタイトスカートに白いブラウスが、夜のオフィスに溶け込むように彼女を際立たせていた。美香の視線は穏やかだが、どこか期待を湛えていて、健太の胸に小さな波を立てた。

 健太は戸惑った。女装など、考えたこともなかった。社内のイベントとはいえ、こんな大胆な企画を上司から直々に頼まれるとは。だが、美香の言葉にはいつもの説得力があり、断りづらい空気が漂っていた。

「え、僕がですか? 美香さん、そんな……似合わないですよ」

「ふふ、試してみないとわからないわ。あなた、スタイルいいんだから。誰も笑ったりしないわよ。むしろ、楽しみにしてる人が多いの」

 美香の唇が優しく弧を描く。彼女は立ち上がり、ドレスを手に取ると、健太の肩にそっとかけた。布地の感触が、シャツ越しに伝わってくる。柔らかく、かすかに甘い香りがした。健太の心臓が、わずかに速くなった。

 結局、根負けした健太は更衣室でドレスに袖を通した。鏡に映る自分は、予想外にしっくりきていた。細身の体躯が、ドレスのラインを自然に引き立てていた。裾は膝上丈で、足元をスラリと長く見せていた。だが、まだ素顔のままだ。

 ラウンジに戻ると、美香がメイク道具を広げて待っていた。周囲には数人の同僚がイベントの準備で残っており、遠巻きにこちらを見ていたが、誰も声をかけず、ただ静かに作業を続けていた。夜のオフィス特有の、都会的な静寂がそれを許していた。

「座って。まずはベースからね」

 美香の指が、健太の頰に触れた。ファンデーションのクッションが、肌に滑る感触。彼女の息が近く、かすかなワインの香りが混じる。イベントの打ち合わせで、少し飲んだのだろうか。健太は目を伏せ、鏡越しに自分の姿を盗み見た。

 アイシャドウを塗る美香の手つきは、プロのようだった。薄いピンクの影がまぶたにのせられ、リップが唇に引かれる。ウィッグは自然なロングで、肩に落ちるウェーブがかすかに揺れた。仕上げに、つけまつげとチーク。鏡の中の自分は、完全に女性だった。柔らかな輪郭、潤んだ瞳。ドレスの胸元がわずかに開き、鎖骨のラインが露わになった。

「どう? 素敵よ、健太……じゃなくて、今日は『健美』って呼ぼうかしら」

 美香の声が、低く響いた。彼女の視線が、健太の顔を、首筋を、ドレスの裾から覗く膝を、ゆっくりと這うように巡る。その視線は、ただの賞賛ではなく、何か熱を帯びていた。健太の肌が、じんわりと熱くなった。ドレスの下の素肌を意識した。普段のスーツでは感じない、布地の密着感が、身体全体を敏感にさせた。

 周囲の同僚が気づき、軽く拍手した。イベントの出し物として、皆が盛り上がった。だが、健太の意識は美香だけに奪われていた。彼女は健太の隣に腰を下ろし、耳元で囁いた。

「意外と似合うわね。あなた、こんな姿も悪くない……いえ、むしろ魅力的」

 息が耳にかかり、健太の首筋に小さな震えが走った。ドレスの肩紐が、わずかにずれそうになり、美香の指がそれを直した。触れられた肩が、熱く疼いた。イベントの練習が始まったが、健太の視線は美香の唇に、何度も引き寄せられた。彼女の瞳は、笑みを浮かべながらも、どこか深い渇望を隠していたようだった。

 練習中、美香は健太の腰に手を添え、ポーズを直した。指先が、ドレスの生地越しに腰骨をなぞった。意図的か、無意識か。健太の息が浅くなった。普段のオフィスでは、ただの上司と部下。デスク越しに業務連絡を交わす距離感。それが今、女装という仮面の下で、淡く溶け始めていた。

 イベント本番は、オフィスのラウンジをステージに見立てて行われた。夜遅く、参加者は20代後半から40代の大人ばかり。平日ゆえの落ち着いた雰囲気で、笑い声が控えめに響く。健太はステージに立ち、簡単な寸劇を演じた。ドレスが揺れ、ウィッグの髪が頰をくすぐる。観客の視線が集まる中、最も熱く感じたのは、美香のものだった。彼女は最前列で、唇を軽く噛み、目を細めている。

 拍手が鳴り響く中、イベントは無事終了した。参加者たちが片付けを始め、ラウンジに静けさが戻る。健太は更衣室に戻ろうとしたが、美香に呼び止められた。

「待って、健美さん。そのままでいいのよ。少し話さない?」

 彼女の声は、いつもより柔らかく、甘い。健太はドレス姿のまま、ソファに座った。メイクされた顔が、街灯の光に照らされ、鏡のように輝く。美香は隣に座り、グラスにワインを注いだ。夜のオフィス、外の雨音がかすかに聞こえる。

「あなた、今日の姿……本当に素敵だった。普段の健太くんもいいけど、こっちのあなたも、忘れられそうにないわ」

 美香の指が、健太の膝に置かれた。ドレスの裾を、優しく撫でるように。布地の下の肌が、熱く反応する。健太の喉が、乾いた。彼女の視線は、絡みつくように深く、瞳の奥に日常の距離を超えた何かが揺れていた。

「美香さん……」

 言葉が途切れる。美香の唇が近づき、耳元で囁いた。

「私の家に来ない? このメイク、落とすの勿体ないわ。続き……一緒にしようよ」

 その言葉に、健太の心がざわついた。ドレスの下で、身体の芯が静かに疼き始める。雨の夜、オフィスの静寂が、二人の距離をさらに縮めていた。外の街灯が、ぼんやりと揺れる。この先、何が待っているのか。健太は、ただ頷くしかなかった。

(第2話へ続く)

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