この作品は18歳未満の方の閲覧を禁止します。フィクションであり、現実の人物・事件とは一切関係ありません。
## 第1話:包帯の指先と絡む視線
白い病室の空気は、いつもより少し重く感じられた。美咲は28歳の看護師で、今日からこの病室の担当になった。入院患者の浩一は35歳。交通事故の後遺症で右腕を固定され、ベッドに横たわっている。カルテには、独身、会社員と記されていた。美咲は夫と結婚して三年。毎朝のルーチンで彼のネクタイを直すのが習慣だ。あの穏やかな朝の光景が、ふと頭をよぎる。
「こんにちは、佐藤浩一さん。今日から私が担当します。高橋美咲です。よろしくお願いします」
美咲は穏やかに微笑み、包帯交換の準備を始めた。浩一はベッドから体を少し起こし、静かに彼女を見た。目が合う。黒い瞳が、じっと美咲の顔を捉える。言葉はない。ただ、視線だけが部屋の静寂を埋めていく。
浩一の右腕はギプスに包まれ、指先がわずかに動く。美咲は慎重に古い包帯を外し、新しいものを巻き始める。指先が、浩一の肌に触れる。温かい。少し固い感触。浩一の息が、かすかに乱れるのがわかった。美咲の指は、ゆっくりと包帯を巻きつける。巻くたび、二人の距離が近づく。ベッドの縁に腰を下ろした美咲の膝が、浩一のシーツに触れそうになる。
沈黙が続く。美咲はいつも通り、淡々と作業を進める。でも、心臓の音が耳に響く。浩一の視線が、首筋を滑るように感じる。夫のことを思う。あの人は今頃、職場で忙しいだろう。美咲は目を伏せ、包帯の結び目を確かめる。浩一の指が、わずかに動いた。美咲の手に、軽く触れる。
「すみません」
浩一の声は低く、静かだった。美咲は顔を上げ、微笑む。
「大丈夫です。痛みますか?」
「いや……全然」
また沈黙。浩一の目が、美咲の唇に留まる。美咲は慌てて視線を逸らし、包帯を固定するピンを留めた。作業が終わり、立ち上がろうとする。すると、浩一が小さく言った。
「ありがとう」
美咲は頷き、カルテに記入する。部屋の空気が、微かに甘く変わった気がした。
午後の巡回が終わり、美咲は休憩室に戻る前に、浩一の病室を再び訪れた。水筒のチェックと、軽い会話がルールだ。でも今日は、なぜか足が自然にそちらへ向かう。ドアをノックし、中に入る。浩一はベッドに座り、窓の外を眺めていた。
「佐藤さん、調子はどうですか? お水、足りますか?」
「ああ、大丈夫。……コーヒー、飲む?」
浩一がベッドサイドのテーブルを指す。小さな紙コップに、インスタントのコーヒーが二つ。湯気が立ち上っている。美咲は一瞬、戸惑う。患者が持参したものだろうか。
「え、いいんですか?」
浩一は無言で、一つを差し出す。美咲は受け取り、ベッドの端に腰を下ろす。二人でコーヒーを飲む。熱い液体が喉を通る。沈黙の中、浩一がふとコップを傾けすぎ、唇に少しこぼれる。美咲は咄嗟にティッシュを差し出し、無言で彼の口元を拭う仕草をする。浩一の目が細まり、口角が上がる。軽い、息づかいのような笑い。
美咲の頰が熱くなる。あの仕草、無邪気だ。夫とは、こんな風に笑ったことがない。浩一の視線が、再び絡みつく。コーヒーの香りが、部屋を満たす。美咲はコップを置き、立ち上がる。
「それじゃ、また後で」
ドアに手をかけた瞬間、浩一の声。
「高橋さん」
振り返る。浩一の目が、深い。
「また、来てくれる?」
美咲は頷き、部屋を出た。廊下を歩きながら、胸の鼓動が収まらない。夫の顔が浮かぶのに、浩一の視線が頭から離れない。包帯を巻いた指の感触。コーヒーの温もり。息が、乱れていた。
その夜、美咲は夫の隣で目を閉じる。でも、眠れない。浩一の病室の静けさが、耳に残る。明日の巡回で、またあの視線に会うと思うと、体が微かに震えた。何かが、始まろうとしている。
(第1話 終わり)