緋雨

水底の視線、夫知らずの疼き(第1話)

この作品は18歳未満の方の閲覧を禁止します。フィクションであり、現実の人物・事件とは一切関係ありません。

## 第1話:水底の視線、初絡み

 平日の夕暮れ、街の喧騒から遠く離れた市民プールは、ひっそりと水面を湛えていた。空は薄墨色に染まり、ガラス屋根の向こうで街灯がぼんやりと灯り始める頃。美咲はいつものように、黒い競泳水着に身を包み、水辺に足を沈めた。三十五歳の主婦生活は、淡々とした繰り返しの中で、こうしたひとときだけが、彼女の内側を静かにかき乱す唯一の時間だった。

 水は冷たく、肌を優しく締めつける。美咲は息を整え、ゆっくりとクロールを始めた。腕が水を掻き分け、脚が静かに蹴るたび、波紋が広がり、すぐに消える。プールサイドのタイルは湿り気を帯び、遠くの換気扇が低く唸る音だけが、沈黙をわずかに破っていた。周囲に人はほとんどいない。仕事帰りのサラリーマンか、時折見かける中年女性が数人。美咲はこの静けさが好きだった。夫の帰宅を待つ家とは違い、ここでは誰も彼女の内面を覗かない。

 十往復ほど泳いだ頃、水面下で何かが動いた。美咲の視界の端に、影が滑り込む。並行して泳ぐ男のシルエット。黒いゴーグル越しに、ちらりと目が合う。水の屈折で歪んだその視線は、しかし鋭く、彼女の胸元をなぞるように落ちた。美咲の息が、一瞬乱れた。男は四十歳前後だろうか。がっしりとした肩幅、泳ぎのフォームは力強く、無駄がない。夫の上司、浩一だと気づくのに時間はかからなかった。社内の忘年会で一度だけ顔を合わせた、あの男。夫が敬う存在。なぜここに。

 浩一は気づいているのか、泳ぎを続けながら、水底で視線を絡めてくる。美咲は目を逸らさず、腕を伸ばした。心臓の鼓動が、水の抵抗と混じり合う。沈黙が、水中を満たす。息を吐くたび、泡が上がり、二人の間を横切り、消える。視線は水面下で深く、互いの肌の輪郭をなぞるように絡みつく。美咲の胸が、わずかに熱を持った。夫の顔が脳裏をよぎるが、それはすぐに水の冷たさに溶け、消えた。

 美咲はターンし、壁に手をついて息を整えた。浩一も同じタイミングで止まる。二人は水中で向き合い、水滴がぽたりと落ちる音が響く。ゴーグルを外す浩一の目が、初めて水面上で彼女を捉えた。深く、静かな瞳。美咲の肌が、勝手にざわつく。

「美咲さん……でしたか。こんなところで」

 浩一の声は低く、水音に溶け込むように穏やかだった。美咲は頷き、水しぶきを払う。言葉を探すが、喉がわずかに乾く。

「浩一さん。夫からお話は伺っていましたけど……ここで会うとは」

 軽い挨拶。たったそれだけ。だが、その瞬間、空気が張り詰めた。浩一の視線が、彼女の濡れた肩を滑り、鎖骨のラインを追う。美咲の息が、熱く浅くなる。肌の下で、何かが疼き始めた。夫の知らない場所で、夫の上司の視線が、こんなにも生々しく絡むなんて。沈黙が、再び二人を包む。水の揺らぎが、互いの体温を運んでくるようだ。

 浩一は小さく微笑み、軽く頭を下げた。

「また、泳ぎましょう」

 そう言い残し、彼は水中に沈む。美咲は見送るように、水面を見つめた。背中を向けた浩一の泳ぎは力強いのに、どこか抑制された優雅さがある。その去り際の視線が、まるで水底から彼女の背に突き刺さるように感じられた。プールから上がる頃、美咲の肌は、水の冷たさとは裏腹に、甘く熱く疼いていた。

 ロッカールームでタオルを巻きながら、美咲は鏡に映る自分を見た。頰がわずかに上気している。夫は今頃、会社で残業か。浩一の部下として、どんな顔をしているのだろう。この出会いが、ただの偶然か。それとも、水底で予感した何かが、次にここに来る時を待っているのか。胸の奥に、微かな緊張が広がった。静かな疼きが、明日への足音のように、ゆっくりと響き始める。

(第1話 終わり)

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