篠原美琴

溶け合う女たちの残り香(第2話)

この作品は18歳未満の方の閲覧を禁止します。フィクションであり、現実の人物・事件とは一切関係ありません。

## 第2話:廊下の柔らかな問い

 雨の翌朝。遥はいつものようにゴミ袋を手に、埃っぽい廊下に出た。平日の空気は重く、窓から差し込む薄い光が階段を淡く照らす。昨夜の香りが、まだ鼻腔の奥に残っていた。壁越しの記憶が、息を吸うたび、微かに蘇る。遥は足音を忍ばせ、階段の方へ向かう。

 その時、隣の扉が静かに開いた。香織だった。黒いコートを脱ぎ、薄手のセーター姿。髪は軽く湿り、朝の空気に溶け込むように柔らかく揺れる。三十路半ばの体躯は、細くしなやかで、歩くたび、かすかな衣ずれの音が廊下に響く。遥の視線が、自然と彼女の首筋に落ちる。あの甘い残り香の源。

 二人は、互いに立ち止まった。距離は一メートルほど。沈黙が、わずかに重くなる。香織の瞳が、遥を捉える。穏やかで、しかしどこか、探るような深み。遥は会釈をし、ゴミ袋を握る手に力を込めた。言葉をかけようか、迷う。だが、香織が先に口を開いた。

「雨、激しかったですね」

 柔らかな声。低く、息のように廊下に広がる。遥は頷き、喉を鳴らす。

「ええ……寝付けませんでした」

 本当は、香りのせいだ。言えない。香織の唇が、わずかに弧を描く。視線が、遥の顔をゆっくりと辿る。鼻先、頰、首筋。まるで、遥の嗅覚を、指先でなぞるように。

「私もです。なんだか、部屋の空気が重くて」

 香織が一歩、近づく。距離が、半分になる。遥の鼻に、ふわりと、あの香りが届く。シャンプーの残りか、肌そのものの蜜のような甘さ。昨夜の濃密さとは違い、朝の柔らかなニュアンス。果実の皮を剥くような、瑞々しい湿り気。遥の息が、わずかに止まる。

 香織の視線が、鋭くなるわけではない。ただ、静かに、遥の反応を観察する。唇が、再び動く。

「最近、私の匂い……気になりますか?」

 囁くように。言葉が、遥の耳朶を優しく撫でる。言葉責め、というほど直接的ではない。だが、その柔らかさが、逆に心の奥を抉る。遥の頰が、熱を持つ。否定しようと口を開くが、声が出ない。香織の瞳が、わずかに細まる。満足げに、息を吐く。

「ふふ……顔に、出てますよ。鼻を、くんくんさせてるみたい」

 甘い響き。責めではない、誘うような柔らかさ。遥の肌が、じわりと痺れる。鼻腔の奥で、香りが膨張する。香織の体臭が、廊下の空気に溶け、遥の肺を満たす。視線が、絡みつく。互いの瞳が、沈黙の中で長引く。一秒、二秒。廊下の静寂が、二人の息遣いを際立たせる。

 香織が、ゆっくりと体をずらす。ゴミ捨て場へ向かう遥の道を開く。だが、その動きで、再び香りが波のように寄せる。首筋から、セーターの隙間から、熟れた蜜の残り香。遥はゴミ袋を置き、階段を下りる。背中で、香織の視線を感じる。熱くなく、ただ静かに追う。

 外の空気は冷たく、街の喧騒が遥を迎える。仕事へ向かう足取りは、いつもより重い。頭の中を、香織の言葉が巡る。「私の匂い、気になりますか?」。柔らかな響きが、耳に残る。鼻を意識するたび、疼きが広がる。胸の奥、肌の表面、息の根元。抑えようと、深呼吸を繰り返す。だが、空気中に、かすかな残り香が混じる気がする。

 デスクワークの合間、遥はコーヒーを啜る。平日のオフィスは、淡々と流れる。だが、集中できない。鼻腔が、敏感になりすぎている。隣席の同僚の香水すら、香織のものと重ねてしまう。あの甘い体臭の記憶が、肺の奥で渦を巻く。昼休み、窓辺に立つ。外は曇天、街灯が早めに灯り始める気配。帰宅したら、また、あの廊下で。

 夕暮れ、遥はアパートに戻った。階段を上る足音が、廊下に響く。202号室の扉は閉まっている。鍵を開け、部屋に入る。湿った空気が、迎える。荷物を置き、ソファに沈む。息を吐く。だが、鼻に、残り香が絡みつく。香織のものだ。廊下で浴びた甘い蜜が、服に染みつき、部屋を満たす。

 シャワーを浴びる。水音が、体を洗い流す。だが、肌の奥に、疼きが残る。タオルで拭き、ベッドに横たわる。窓の外は、街灯の光がぼんやり。平日夜の静寂。隣室から、かすかな物音。扉の閉まる音、足音。そして、また、あの香りが壁越しに漂い始める。

 遥は目を閉じる。眠ろうとする。だが、香織の言葉が、脳裏に蘇る。「鼻を、くんくんさせてるみたい」。柔らかな嘲りにも似た響きが、心を掻き乱す。体臭の記憶が、鮮やかになる。首筋の甘さ、セーターの隙間の湿り気、廊下の空気に溶けた蜜。鼻腔が、勝手に反応する。息が、浅く乱れる。

 壁に手を伸ばす。冷たいコンクリート。向こう側で、香織の気配が脈打つ。視線を想像する。あの長い沈黙の瞳。遥の肌が、熱く痺れる。胸の奥から、甘い疼きが広がる。抑えようと、体を丸める。だが、残り香は離れない。部屋全体を、香織の体臭が包む。息を吸うたび、肺が震える。

 時計の針が、ゆっくり進む。眠れぬ夜。遥の心に、微かな渇望が芽生えていた。明日の廊下で、何が起こるのか。香織の次の言葉が、どんな甘い問いを投げかけるのか。壁一枚の距離が、ますます、近く遠く感じられる。

 残り香が、夜を濃く染めていく。遥の息は、まだ、静かに乱れたままだった。

(第2話 終わり 次話へ続く)