篠原美琴

視線の女王に跪く肌(第1話)

この作品は18歳未満の方の閲覧を禁止します。フィクションであり、現実の人物・事件とは一切関係ありません。

## 第1話:カウンター越しの沈黙命令

 平日の夜、街灯の淡い光が窓ガラスに滲む頃。喫茶店「ルナ」は、客足が途絶え、静寂に包まれていた。カウンターの向こうで、美琴はグラスを磨く手を止め、ゆっくりと息を吐いた。三十五歳の彼女は、この店を五年ほど前から一人で切り盛りしている。地方から上京した頃の記憶は薄れ、今はただ、この狭い空間の空気の移ろいを、肌で感じ取る日々だ。

 常連の男、拓也が席に着いたのは、閉店間際だった。二十八歳。毎週木曜のこの時間に現れ、ブランデーを一口だけ傾けて帰る。今日も変わらず、窓際の席を選び、メニューも開かずに座った。美琴は視線を落とさず、カウンターの端で彼の気配を確かめた。男の視線が、いつものように、彼女の指先に絡みつく。

 最初は気づかなかった。数ヶ月前、グラスを置く瞬間のわずかな間、男の瞳が彼女の手首を追うのを。やがてそれは、首筋へ、鎖骨の影へ、移っていった。美琴はそれを、ただ観察した。言葉など交わさず。男の息が、カウンター越しに微かに乱れるのを、感じ取るだけで十分だった。

 今夜も、拓也はブランデーを注文した。美琴は無言でボトルを手に取り、グラスに注ぐ。琥珀色の液体が揺れるのを、男の瞳が追う。彼女はグラスをカウンターに置き、指先で軽く押さえた。視線を上げ、男の目を見つめる。沈黙が、空間を重くする。

 「置け」

 言葉は出さなかった。ただ、視線で命じた。カウンターの端に、予め用意した小さなグラス皿がある。拓也の指が、わずかに震えた。グラスを掴み、皿へ移す動作が、遅い。美琴は動かず、その指先の震えを、じっと見つめた。男の喉が、こくりと動く。頰に、薄い赤みが差す。

 息が、熱を帯びる。カウンターは狭く、二人の距離は三十センチほど。美琴の吐息が、男の手に触れそうな近さだ。拓也の瞳が、揺れる。彼女の視線から逃れようと、グラスに落ちるが、すぐに引き戻される。美琴は微笑まない。ただ、男の首筋に汗の粒が浮かぶのと、指の震え、皿にグラスを置く音のかすかな乱れを観察する。

 店内のランプが、橙色の光を落とす。外は雨が降り始め、窓に細かな水音が響く。客はもういない。最後の注文を終え、美琴はボトルを棚に戻した。拓也は席を立たず、グラスを握ったまま。視線が、絡みつく。

 美琴はカウンターを拭く布を置き、ゆっくりと身を寄せた。男の息が、速くなる。彼女の視線が、男の唇をなぞるように這う。言葉の代わりに、沈黙が命令を下す。拓也の肩が、わずかに縮こまる。羞恥が、肌を熱くさせるのがわかる。頰の赤みが、首筋へ降りていく。

 「今夜は、遅くまで」

 囁きは出なかった。視線だけが、男の心を掴む。拓也の指が、グラスを強く握る。震えが、止まらない。美琴は一歩下がり、店内の時計に目をやる。閉店時間だ。彼女は鍵を回す音を立て、外套を羽織った。男の視線が、追う。

 カウンターの向こうで、拓也は立ち上がった。足音が、静かに近づく。美琴は振り返らず、奥の扉を示す。視線で、命じる。「閉店後、奥へ」

 男の息が、途切れた。頰の熱が、頂点に達する。抗えない引きに、拓也はうなずくように首を下げた。扉の向こう、暗い部屋の気配が、二人の肌を、甘く疼かせる。

 美琴の視線は、女王のように、男を跪かせる。まだ、何も触れていないのに。

(約1950字)

 次話:「閉店後の奥部屋で、視線が跪きを強いる」