篠原美琴

上司の残り香に震える禁断(第1話)

この作品は18歳未満の方の閲覧を禁止します。フィクションであり、現実の人物・事件とは一切関係ありません。

## 第1話:残業オフィスに忍び寄る微かな体臭

オフィスの窓辺に、夜の闇が静かに沈殿していた。
平日、終電間際の時間帯。デスクの蛍光灯が淡く照らす中、彩子は一人、書類の山に目を落としていた。二十八歳の彼女は、この会社に勤めて五年。結婚して二年目の今も、残業は日常の延長線上にある。夫の待つ家への帰りは、いつも通り遅くなる。

浩一のデスクが、すぐ隣にあった。四十二歳の部長。部下を厳しくも公平に見守る男で、彩子は彼の指示をいつも淡々とこなす。今日も、プロジェクトの最終確認で二人きり。外の街灯がぼんやりとガラスに映り、室内の空気は重く淀んでいる。

彼が席を外した。ジャケットを椅子の背にかけ、会議室へ向かったきり戻らない。彩子はため息をつき、隣のデスクに視線を移す。ふと、鼻腔に微かな何かが入り込んだ。

それは、浩一のジャケットから漂っていた。
微かな体臭。汗と石鹸の残り香が、混じり合って空気に溶けている。甘くもなく、辛くもなく。ただ、男の体温を宿したような、温かな気配。彩子は息を止めた。指先がキーボードの上で、わずかに止まる。

オフィスは沈黙に包まれている。他の部署はとっくに帰宅し、遠くの廊下で空調の低い唸りだけが響く。彩子の頰が、熱を持つ。ジャケットの襟元から、かすかに匂いが立ち上るのを、視界の端で捉えていた。深く吸い込めば、肺の奥まで染み込むだろう。でも、吸わない。息を潜め、ただその存在を感じる。

浩一が戻ってきた。足音が近づき、デスクに腰を下ろす。ジャケットを羽織ろうと手を伸ばす動作で、再び匂いが動いた。彩子の鼻先を、優しく撫でるように。彼女は視線を上げない。モニターに固定したまま、心臓の鼓動が耳元で鳴るのを聞く。

「まだかかるか」
彼の声が、低く響いた。彩子は小さく頷いた。「あと少しです」。言葉は短く、事務的。だが、声の端に、わずかな揺れが混じる。浩一の視線が、彼女の横顔に落ちる。沈黙が、二人を包む。

距離は、机一つ分。肩が触れそうに近くないのに、匂いが橋を架ける。浩一の体臭が、彩子の肌に染みつくように感じられた。首筋が、熱く疼く。息が、浅くなる。夫の匂いとは違う。この微かな、男の残り香は、抑えきれないざわめきを呼び起こす。既婚の自分が、こんなオフィスで、こんな感覚に囚われるとは。

浩一がジャケットを直す。布ずれの音とともに、匂いが強まる。彩子の指が、書類の上で震えた。視線を上げると、彼の目がこちらを捉えていた。一瞬、互いの瞳が交錯する。言葉はない。ただ、息の間が、わずかに途切れる。

肌が、熱く疼いた。全身が、甘い痺れに包まれる。触れていないのに、匂いが体を這うように。彩子は目を伏せ、作業に戻るふりをした。だが、心の奥で、何かが静かに溶け始めていた。

終業のベルが鳴り、浩一が先に立ち上がる。「お疲れ。気をつけて帰れ」彼の背中が遠ざかる。ジャケットの残り香が、オフィスに薄く残る。彩子はゆっくり息を吐き、デスクを片付けた。エレベーターで一人降りる頃、鼻腔にまだ、あの気配がまとわりついていた。

家に着くと、夫がソファで新聞を読んでいた。「遅かったな。おかえり」穏やかな声。彩子は微笑み、キスを交わす。夕食を温め直し、並んで食べる。いつもの夜。だが、夫の肩に寄りかかった瞬間、鼻先を掠めたのは、浩一の体臭だった。

幻のように蘇る微かな香り。彩子の心が、ざわついた。夫の温もりに包まれながら、肌の奥が疼くのを抑えられない。息が、浅く乱れる。この感覚は、何なのか。明日のオフィスで、またあの匂いに会うと思うと、胸の鼓動が速まる。沈黙の夜が、禁断の予感を孕んでいた。

(1987文字)