三条由真

女社長の視線、妻の隙を刺す(第1話)

この作品は18歳未満の方の閲覧を禁止します。フィクションであり、現実の人物・事件とは一切関係ありません。

## 第1話:会議室の視線、残業の予感

平日のオフィスの窓辺に、夕暮れの街灯がぼんやりと灯り始める。空気は重く淀み、残業の気配がフロアに漂っていた。拓也はデスクで資料をまとめながら、ふと時計に目をやる。28歳の彼は、この会社に入って五年。真面目に働くことで、ようやく中堅のポジションを掴み取った。妻の存在が、心の支えだった。毎朝のコーヒーの香り、夜のささやかな会話。あの穏やかな日常が、彼の原動力だ。

今日の部長会議は、いつもより長引いていた。広々とした会議室の中央テーブルに、十数人の幹部と部下たちが並ぶ。女社長、遥の姿が、上座に鎮座するように座っていた。35歳の彼女は、黒のタイトなスーツに身を包み、長い黒髪を後ろでまとめている。鋭い目元が、資料に注がれるたび、周囲の空気が引き締まる。遥は創業以来、この会社を率いる辣腕の経営者。部下たちからは畏怖と尊敬の念を一身に集めていた。

「次、営業部の進捗報告。拓也君、君からどうぞ」

遥の声が、静かに響く。低く、抑揚を抑えたトーン。拓也は資料を握りしめ、立ち上がった。心臓が少し速く鳴る。彼女の視線が、自分に固定されるのを感じたからだ。普段は流れるように会議を進める遥が、今日は違う。報告を始めると、彼女の瞳が、じっと拓也の顔を捉えていた。言葉の一つ一つを、探るように。

「今月の売上目標は達成率92パーセント。主な要因は、新規クライアントの獲得で……」

拓也の報告は、淡々と進む。だが、遥の視線が、首筋を這うように感じる。熱い。いや、熱すぎる。彼女の唇が、わずかに弧を描く。微笑みか、それとも嘲笑か。拓也は資料に目を落とすが、集中できない。妻の顔が、ふと脳裏に浮かぶ。昨夜のベッドで囁いた言葉。「今日も頑張ってね」。あの温もりが、視線の下で揺らぐ。

「興味深いわね。君の分析、いつも通り的確。でも……ここ、この部分。もう少し深掘りできるんじゃないかしら?」

遥の指が、資料の一節をなぞる。細長い指先が、紙面を滑る仕草。会議室の空気が、僅かに張り詰める。他の幹部たちは、静かに頷くだけだ。拓也は喉を鳴らし、追加のデータを口にする。だが、遥の視線は離れない。瞳の奥に、何か得体の知れない光が宿っている。獲物を値踏みするような、甘い圧力。拓也の背筋に、冷たい汗が伝う。息が、詰まる。

会議が終わり、皆が席を立つ。拓也も資料をまとめ、退出しようとする。だが、遥の声が背中を刺す。

「拓也君、少し残って。話があるわ」

周囲の足音が遠ざかり、会議室に静寂が訪れる。ドアが閉まる音が、響く。二人きり。窓の外は、すっかり夜。街灯の光が、ガラスに反射し、遥の横顔を照らす。彼女は席に座ったまま、ゆっくりと足を組み替える。タイトスカートの裾が、僅かに持ち上がり、ストッキングの光沢が覗く。拓也はテーブル越しに立ち尽くす。

「君の仕事ぶり、最近目立つわね。28歳でここまで成果を出すなんて、素晴らしい」

遥の言葉は穏やかだ。だが、視線が絡みつく。拓也は頷き、言葉を探す。「ありがとうございます。チームのおかげです」

彼女は小さく笑う。唇が湿り、赤みが差す。「謙遜? それとも、妻君に褒められるのが一番嬉しいのかしら」

妻の話題。唐突に。拓也の胸が、ざわつく。遥はどうして知っている? いや、社長だ。社員の私生活くらい、把握しているだろう。だが、その口調に、僅かな棘がある。からかうような、探るような。「いえ、そんな……」

遥は立ち上がり、ゆっくりと拓也に近づく。ヒールの音が、カツカツと床に響く。距離が縮まる。彼女の香水の匂いが、甘く漂う。ジャスミンとムスクの混ざり合い。息が近い。「既婚者ね。羨ましいわ。安定した日常。でも……仕事は、もっと刺激が欲しいんじゃない?」

言葉が、耳朶をくすぐるように落ちる。拓也の視界に、遥の瞳が広がる。黒い瞳が、深く吸い込む。心臓の鼓動が、速まる。妻の顔が、再び浮かぶ。あの笑顔を守りたい。だが、この視線の下で、体が熱を持つ。抵抗の意志が、僅かに溶け始める。

「社長、何かご指示を……」

拓也の声がかすれる。遥は一歩、踏み込む。テーブルを回り込み、すぐ傍らに立つ。指先が、拓也のネクタイに触れる。軽く、引っ張る仕草。「指示? いいえ。ただ、君の可能性を見ているの。もっと……近づきたいだけ」

彼女の息が、頰にかかる。温かく、湿った熱。拓也は後ずさりそうになるが、壁に背が当たる。遥の微笑みが、深まる。主導権を握る女王のような、妖しい弧。「今夜は残業よ。二人で、この資料を完璧に仕上げましょう。ね?」

沈黙が落ちる。空気が凍りつく。拓也の喉が、鳴る。妻の影が、心にちらつく。だが、遥の視線が、それを塗りつぶす。わずかな傾き。心が、揺らぐ。この夜が、何かを変える予感。オフィスの静寂が、二人の息遣いを際立たせる。遥の指が、ネクタイから離れる。その瞬間、甘い疼きが、拓也の胸に残った。

次に、どんな言葉が落ちてくるのか。残業の闇が、ゆっくりと深まっていく。

(1987文字)