久我涼一

湯煙の人妻、夫の知らぬ疼き(第2話)

この作品は18歳未満の方の閲覧を禁止します。フィクションであり、現実の人物・事件とは一切関係ありません。

## 第2話:朝霧の庭、湯に浮かぶ視線

朝の光が障子越しに柔らかく差し込む頃、浩一は目を覚ました。山奥の旅館は平日ゆえに静寂が深く、鳥の声すら遠い。隣で美咲がまだ眠る姿を、浩一は静かに見つめた。浴衣の襟元が少し乱れ、首筋の白さが朝霧のように淡い。昨夜の露天風呂の余韻が、彼女の肌に微かな火照りを残しているようだ。浩一はそっと手を伸ばし、髪を撫でた。八年経った妻の寝顔は、変わらず穏やかで、日常の安心を呼び起こす。

美咲が目を覚まし、微笑む。

「よく眠れた? 今日は散策しようか」

二人は軽い朝食を済ませ、旅館の庭園へ出た。石畳の小道が霧に包まれ、周囲の木立が湿った空気を湛えている。平日特有の閑散とした空気、人の気配はほとんどない。美咲が、朝の冷気に軽く肩をすくめる。浩一は彼女の腰に手を回し、ゆっくり歩を進めた。湯気の記憶が体に染みつき、夫婦の距離は自然と近くなる。

小道の曲がり角で、恭平と再会した。昨夜の男だ。浴衣に羽織を纏い、手に湯の宿の地図を持っている。朝霧の中で、彼の輪郭がくっきり浮かび上がる。四十代半ばの体躯は、ゆったりとした所作に経験の重みを湛えていた。

「おはようございます。昨夜は同席でしたね」

恭平の声は低く落ち着いており、軽く頭を下げる。浩一も挨拶を返し、美咲が柔らかく微笑んだ。

「ええ、静かな夕餉でしたわね。おはようございます」

三人は自然と並んで歩き始めた。恭平は旅館の裏手にある渓谷の話を振る。仕事で地方を回る機会が多く、この辺りの湯の効能を知り尽くしているそうだ。浩一はそれを聞きながら、昨夜の視線を思い浮かべた。あの目は今も、美咲の横顔を静かに追っている。

突然、浩一の携帯が鳴った。会社からの着信だ。管理職の宿命、休日返上でさえ仕事が忍び寄る。

「すまん、少し出るよ。美咲、ここで待ってて」

浩一は恭平に軽く会釈し、小道の端で電話に応じた。美咲と恭平は立ち止まり、霧の庭を眺めた。浩一の声が遠ざかる中、恭平が静かに口を開いた。

「ご主人はお忙しそうですね。奥様は、こんな山奥でゆっくりお休みになられてるんですか」

美咲は頷き、霧に濡れた葉を指で払った。

「ええ、浩一はいつも仕事で……。たまの休みも、こうして気にかかるんです」

恭平の目は穏やかだが、言葉に人生の厚みが滲む。独身で地方を転々とする生活、妻帯者だった頃の後悔、日常の隙間に潜む渇望。淡々と語るその内容に、美咲の胸が微かに揺れた。浩一の話はいつも仕事中心、こうした深い余韻のある言葉は久しぶりだ。恭平の視線が、彼女の浴衣の袖口から覗く手首に落ちた。細く、湯上がりの柔らかさ。

「人生は、選んだ道の先に何があるか、わからないものですよ。奥様のような美しい方が、ただ傍らで見守るだけでは、もったいない」

言葉の端に熱が宿る。美咲は視線を逸らし、霧の向こうを眺めた。浩一の電話は長引き、声が苛立つのが聞こえる。恭平は静かに続ける。

「湯は体を解すだけでなく、心の澱も流します。この旅館の混浴、昼頃は貸切のようなものですよ。一度、試されてみては」

美咲の頰に、朝の冷気とは違う温かさが差した。浩一の不在が、二人の間に微かな空白を生む。

電話を終えた浩一が戻る頃、美咲の心に小さな波紋が残っていた。三人で昼食を摂り、浩一は再び仕事のメールに追われ、部屋で休むと言い残した。美咲は一人、昼下がりの混浴風呂へ向かった。平日、客はまばら。湯船は岩に囲まれ、湯気が立ち上るヴェールがすべてを柔らかくぼかす。彼女は浴衣を脱ぎ、湯に体を沈めた。三十歳を過ぎた肌は、湯に濡れてしっとりと輝く。胸の柔らかな膨らみ、腰のくびれが、水面に淡い影を落とす。日常の夫婦生活では感じない、湯の熱が体を巡る。

湯気の向こうで、足音がした。恭平だった。タオルを腰に巻き、逞しい体躯が現れる。肩幅の広さ、胸板の厚み、人生の積み重ねが刻んだ筋肉の質感。四十代半ばの男の体は、浩一のそれより遥かに力強い。美咲の視線が、無意識にそこへ奪われた。湯に濡れた肌の光沢、太腿の張り。恭平は気づき、静かに微笑んだ。

「失礼。貸切かと思いきや……奥様もですか」

美咲は慌てて目を伏せ、湯をかき回した。心臓の鼓動が速まる。浩一の不在が、この偶然を許した。恭平は離れた位置に浸かり、静かに目を閉じた。だが、湯気の隙間から、彼の視線が美咲の肩、鎖骨をなぞるように感じた。彼女の体が、湯の熱とは別の疼きで震えた。八年経った夫の体は優しいが、恭平のそれは違う。経験豊かな重み、抑えきれない衝動の予感。

「湯、気持ちいいですね。日常の重さが、溶けていく」

恭平の声が響く。美咲は小さく頷き、言葉を探した。浩一のメールがまだ続いているはず。彼女の胸に、日常では決して灯らない熱が、ゆっくりと広がる。視線を交わす瞬間、恭平の目が深く絡みつく。拒む言葉は出ず、ただ湯気が二人の間を満たす。

風呂から上がった美咲は、浴衣を纏い直し、部屋に戻った。浩一はようやく仕事から解放され、疲れた顔で微笑んだ。

「遅くなってごめん。美咲、何してた?」

「散策と、お風呂よ。ゆっくりできたわ」

夕刻、旅館のラウンジで三人が再び顔を合わせた。恭平が酒を勧め、手酌で注いだ。浩一のグラスが空くのが早い。美咲の杯にも、恭平の指が軽く触れる。

「少し、奥様もどうです。この酒、夜の湯に合うんですよ」

美咲の指先が震え、杯を受け取った。酒の熱が喉を滑り、胸の疼きを煽る。浩一の視線はすでにぼんやりし、恭平の言葉が美咲の耳に優しく絡みつく。夜の宴が、静かに迫っていた。

(第2話 終わり)