久我涼一

湯煙の人妻、夫の知らぬ疼き(第1話)

この作品は18歳未満の方の閲覧を禁止します。フィクションであり、現実の人物・事件とは一切関係ありません。

## 第1話:夕餉の席、静かな視線の揺らぎ

山奥の温泉旅館は、平日ともなればひっそりと静まり返っていた。木々のざわめきと、遠くで響く川の流れだけが、夜の帳を優しく包む。浩一は妻の美咲を連れ、ようやくこの地に辿り着いた。三十代半ばの彼は、都心の会社で中堅管理職を務め、連日の残業と人間関係の軋轢に体を蝕まれていた。美咲を誘ったのは、そんな日常の重荷を少しでも溶かすためだ。彼女は三十歳を過ぎた今も、柔らかな輪郭の顔立ちに穏やかな笑みを湛え、浩一の支えとなっていた。二人は血の繋がりなどない、ただの夫婦。結婚八年、互いの癖を知り尽くした関係が、静かな安心を与えていた。

チェックインを済ませ、部屋で湯浴みを終えた頃、外はすっかり暮れていた。夕食の時間だ。旅館の宴会場は畳敷きで、暖簾の向こうに湯気の香りが漂う。夫婦は隣り合った卓に着き、湯葉の刺身や山菜の天ぷらを前に箸を進めた。美咲の着物姿は、普段の部屋着とは違い、首筋の白さが際立つ。浩一はそれを横目で見ながら、ビールを一口含んだ。

「やっと休めるね。美咲、ありがとう。来てくれて」

浩一の言葉に、美咲はくすりと笑った。細い指で湯呑みを傾け、湯気の向こうで目を細める。

「浩一こそ、ずっと疲れてたもの。たまにはこういうところで、ゆっくりしようよ」

日常の延長のような会話。だが、そこに浩一は安堵を覚えていた。美咲の声はいつも通り穏やかで、夫婦の絆を確かめ合うようだ。卓の向こう、別の客が一人で酒を飲んでいることに、最初は気づかなかった。四十代半ばと思しき男、恭平だった。背広を脱ぎ、浴衣姿でゆったりと構え、静かに日本酒を注いでいる。顔立ちは端正で、目元に深い皺が刻まれ、人生の厚みを感じさせる。独り身か、それとも妻を置いてきたのか。浩一はぼんやりとその姿を捉え、仕事の疲れからか、ふと他人事のように思った。

美咲が立ち上がり、湯気の立ち上る鍋に近づいた時だった。恭平の視線が、彼女の後ろ姿に絡みつくように動いた。柔らかな腰のライン、浴衣の裾から覗く足首の細さ。ほんの一瞬の視線だったが、浩一はそれを敏感に感じ取った。気のせいか。いや、男の目だ。あの男の目は、ただの客のそれではない。静かな宴会場で、微かな緊張が空気に溶け込む。

美咲が席に戻り、鍋の具を皿に取る。浩一はそれを手伝おうと手を伸ばすが、彼女の笑顔で阻まれる。

「いいのよ、自分で。浩一も飲んで、ほら」

ビールを勧められ、浩一はグラスを傾けた。隣の卓から、恭平の低い声が漏れ聞こえる。女将に何かを尋ねる声だ。落ち着いたトーン、言葉の端々に経験の重みがある。美咲の耳にも届いたのか、彼女はふと視線を向けた。恭平もまた、ちょうど目を上げ、美咲の柔らかな笑みに応じるように、わずかに口角を上げる。

「どうかした?」

浩一の問いに、美咲は首を振った。

「ううん、何でもないわ。ただ、静かなお客さんね、あの方」

会話はそこで途切れ、食事が進む。だが浩一の胸に、名状しがたいざわめきが残った。美咲の首筋に、宴会場の灯りが柔らかく影を落とす。あの視線が、妻の肌をなぞったように思えてならない。恭平は再び酒を注ぎ、静かに味わう。時折、美咲の方へ視線を投げかけ、決して露骨ではないが、確かな熱を帯びて。

食事が終わり、夫婦は部屋に戻った。廊下を歩く美咲の背中を、浩一は見つめる。浴衣の隙間から覗く素肌が、湯上がりの火照りを残している。部屋に入り、布団を敷く間、美咲は窓辺に立ち、外の闇を眺めた。

「いいお湯だったわね。肌がすべすべする」

浩一は頷き、彼女を抱き寄せようとしたが、美咲は軽く身をよじる。

「まだ熱いわよ。夜の露天、行ってみない? 貸切だって聞いたし」

浩一は了承し、二人は再び浴衣を纏って外へ。山奥の露天風呂は、岩肌に囲まれ、湯気が夜空に溶けていく。女湯と男湯は仕切りで分けられているが、湯気のヴェールがすべてをぼかす。浩一は男湯に浸かり、美咲のことを思う。向こう側で、彼女の肌が湯に濡れる姿を想像する。柔らかな胸の膨らみ、腰のくびれ、湯に光る太腿。八年経った今も、愛おしい。仕事の疲れが溶け、湯の温もりに体を委ねる。

だが、ふと脳裏に浮かぶのは、夕食のあの視線。恭平の目だ。あの男は今、どこで何をしているのか。美咲の笑顔に絡みついた視線が、浩一の胸に微かな棘を残す。湯気が立ち上る中、浩一は目を閉じた。妻の肌は美しい。それを、他の男が……。

露天風呂から上がった美咲は、部屋で髪を拭きながら微笑んだ。浩一はそれを愛おしく見つめ、布団に横になる。夜はまだ深い。だが、二人の間に、予感めいた空気が静かに流れ始めていた。翌朝、何かが変わり始める予感を、浩一はまだ知らない。

(第1話 終わり)