久我涼一

唇の女王 新人OLの甘い主従(第1話)

この作品は18歳未満の方の閲覧を禁止します。フィクションであり、現実の人物・事件とは一切関係ありません。

## 第1話:残業のワインと揺らぐ視線

 平日の夜、オフィスの窓から見える街灯の光が、ぼんやりとデスクを照らしていた。時計の針はすでに二十時を回り、周囲のフロアは静まり返っている。エレベーターの音も途絶え、遠くの道路を走る車のエンジン音だけが、かすかに聞こえてくる。俺は部長として、この部署をまとめている五十代の男だ。長いキャリアの中で、数えきれないほどの部下を見てきた。皆、最初は熱心で、次第に日常に溶け込み、時には疲弊して去っていく。そんな繰り返しの中で、俺自身も感情を抑える術を身につけたつもりだった。

 そんなある日、新人として入社したのが佐倉美咲だった。二十五歳。履歴書に記された年齢を思い出すだけで、彼女の存在が少し不思議に思える。入社初日の朝、会議室で顔を合わせた時、彼女は黒いスーツに身を包み、背筋を伸ばして座っていた。細身の体躯に、肩まで落ちる黒髪が静かに揺れ、化粧気のない顔立ちが妙に凛としていた。自己紹介の声は低めで、抑揚を抑えたトーン。だが、その瞳――深い茶色の瞳が、俺の視線を捉えた瞬間、何かざわつくものを感じた。

「佐倉美咲です。営業部に配属されました。どうぞよろしくお願いします」

 短く、しかし確かな響き。俺は部長として、いつものように「期待しているよ」と声をかけ、視線を資料に戻した。だが、あの瞳の奥に、ただの新人らしからぬものが潜んでいる気がした。挑戦的なのか、好奇心か、それとも単なる錯覚か。いずれにせよ、日常の距離を保つ。それが俺のルールだ。大人として、部下との線引きを崩すような真似はしない。責任があるのだから。

 それから一週間。美咲はすぐに業務に慣れ、報告書を的確にまとめ、クライアントとの電話対応も淀みなくこなした。デスクは俺の隣の列で、時折、彼女のタイピングの音が耳に届く。昼休みには同僚たちとランチに出かけ、夕方にはコーヒーを淹れて回る。普通の新人だ。だが、俺のデスクに書類を置く時、彼女の視線が少し長く留まる。俺が顔を上げると、すぐに逸らす。あの凛とした瞳が、俺の胸に小さな棘を残す。

 今夜も残業だ。月末のレポート提出が重なり、フロアに残っているのは俺と美咲だけ。彼女は入社以来、率先して遅くまで残るタイプだった。他の部下たちは定時で帰り、俺はそれを咎めない。仕事は割り切るものだ。美咲のデスクライトが点き、キーボードの音が響く。俺はモニターに向かい、数字を睨む。外は雨が降り始め、窓ガラスを叩く音が静寂を強調する。

「部長、少し休憩しませんか?」

 声がして、顔を上げると、美咲が立っていた。スーツのジャケットを脱ぎ、白いブラウス姿。ブラウスを緩め、首元が少し開いている。手には小さなクーラーボックスを持っていた。入社祝いの残り物か、何か飲み物だろうか。

「いや、いいよ。まだ終わらない」

 俺はそう返したが、彼女は微笑んでデスクに近づいてきた。クーラーボックスを開け、中からワインのボトルとグラスを二つ取り出す。赤ワインだ。社内の冷蔵庫に誰かが置いていったものか、それとも彼女の私物か。オフィスで酒を飲むなど、珍しい光景だが、二人きりの残業なら、多少の融通は利く。

「締め切りまであと少しです。少しだけ、息抜きに」

 彼女の声は穏やかだが、瞳に微かな輝きがある。俺はため息をつき、椅子を引いてグラスを受け取った。ボトルから注がれるワインの香りが、甘く広がる。普段、酒は家でゆっくり飲む派だ。だが、拒否する理由もない。グラスを軽く合わせ、口に運ぶ。渋みが舌に残る。

 美咲もグラスを傾け、一口含んだ。ゆっくりと味わう仕草が、妙に優雅だ。二十五歳の女が、こんな夜のオフィスでワインを飲む姿。ありふれた日常の延長線上にあるはずなのに、どこか異質だ。彼女の唇がグラスに触れ、赤い雫がわずかに残る。俺は視線を逸らし、再びモニターに向かう。だが、心臓の鼓動が少し速い。

「部長」

 再び声。美咲が俺のデスクのそばに寄り、ワインを口に含んだまま近づいてくる。距離が近い。息がかかるほどだ。彼女の瞳が、真正面から俺を捉える。あの凛とした視線が、今はより深く、俺を引き込む。

「飲んでください、上司」

 囁き声。ワインを口に含んだままの唇が、ゆっくりと俺の唇に寄せられる。ワインの香りと、彼女の息が混じり合う。心臓が高鳴る。日常の距離が、音を立てて崩れ始める瞬間――。

(第2話へ続く)

(文字数:約1980字)