白坂透子

互いの息が溶かす甘い匂い(第1話)

この作品は18歳未満の方の閲覧を禁止します。フィクションであり、現実の人物・事件とは一切関係ありません。

## 第1話:夕暮れの再会、柔らかな体温の香り

 平日の夕暮れ、街の喧騒が少しずつ静まりゆく頃。私は小さなイタリアンレストランのカウンター席に腰を下ろしていた。窓の外では、街灯がぼんやりと灯り始め、オレンジ色の光がアスファルトを優しく染めている。仕事の疲れを癒す一杯を傾けようと、ふと思い立って訪れたこの店。数年ぶりに連絡を取った旧友、拓也との待ち合わせ場所だ。

 私、35歳。広告代理店で働く普通のOL。穏やかな日常を好み、信頼できる人間関係を大切にするタイプだ。拓也とは、20代の頃、同じ職場で出会った。血のつながりなどない、ただの旧友。互いに忙しさにかまけて疎遠になっていたが、最近のメールのやり取りで、再会を約束した。あの頃の彼は、いつも落ち着いた笑顔で周りを和ませる男だった。今もきっと、そうなのだろう。

 店内の柔らかな照明が、木目のテーブルを温かく照らす。ジャズのメロディーが控えめに流れ、グラスの氷が軽く鳴る音が心地よい。カウンターの向こうで、バーテンダーが静かにシェイカーを振っている。大人の時間、こんな平日の夕暮れが好きだ。

 ドアのベルが小さく鳴り、拓也が入ってきた。36歳になった彼は、少し肩幅が広くなり、深みのある大人の男の佇まいをまとっていた。黒のシャツに細身のパンツ、シンプルだが洗練された装い。こちらに気づくと、柔らかな笑みを浮かべて近づいてくる。

「久しぶり、彩花。待たせた?」

 彼の声は低く、穏やか。私の名を呼ぶ響きに、懐かしさが胸に広がる。私は立ち上がり、軽く抱擁を交わした。数年ぶりの距離の近さ。互いの体温が、ほんの少し触れ合う。

「ううん、ちょうどいいよ。拓也、元気そうでよかった」

 席に着き、メニューを眺めながら近況を語り合う。ワインを注文し、前菜のカルパッチョが運ばれてくる。話題は仕事のこと、共通の知人のこと、自然と笑いがこぼれる。信頼の糸が、再び繋がっていくような心地よさ。

 ふと、カウンターの隙間から、拓也の匂いが漂ってきた。体温のこもった、柔らかな男の香り。シャンプーの清涼感と、肌からにじむ温かなムスクのようなニュアンス。微かに汗の塩味を思わせる、生き生きとした息吹。夕暮れの空気に溶け込み、鼻腔を優しくくすぐる。

 私は無意識に、顔を少し近づけた。匂いは、記憶を呼び起こす。昔、残業の後の飲み屋で、彼の隣に座った時も、こんな風に感じた。あの頃はただの友人として、心地よい存在だったのに、今は違う。歳を重ねたせいか、それともこの静かな空間のせいか。匂いに甘く疼く。

「どうしたの? なんか、じっと見て」

 拓也が気づき、穏やかな目で私を見つめ返す。その視線に、安心が宿っている。互いの信頼が、こんなにも変わらずにあることに、心が緩む。

「ごめん、なんか……拓也の匂い、いいなって思って。体温みたいな、柔らかい感じ」

 言葉が自然に零れた。恥ずかしさより、素直さが勝る。旧友だからこそ、こんなことを言える。

 彼は少し驚いた顔をし、それからくすりと笑った。顔を寄せ、私の首筋に軽く鼻を近づける。

「そう? 彩花の匂いも、変わらないよ。優しい花みたいな、甘いニュアンス。ワインと混ざって、もっと深くなる」

 彼の吐息が、耳元にかすかに触れる。温かく、湿り気を帯びた息。そこに混じる彼の香りが、濃密に広がる。私は頰が熱くなり、目を細めた。カウンターの上で、手が自然に触れ合う。指先が絡み、互いの体温を確かめ合うように。

 夕食が進む。パスタをフォークで巻きながら、会話は途切れない。だが、意識は匂いに奪われていく。彼の首筋から漂う香り、グラスを傾けるたびの息づかい。私の鼻は、それを追いかけるように敏感になる。体温が匂いを運び、柔らかく包み込む。信頼の眼差しが交錯するたび、心の奥が甘く疼く。

「昔から、彩花の近くにいると落ち着くんだよな。こんな匂い、感じてたのかも」

 拓也の言葉に、私は頷く。互いの香りを褒め合うこの瞬間、無意識に体が近づいていた。肩が触れ、膝が軽くぶつかる。店内の静寂が、二人の世界を優しく守る。

 食事が終わり、会計を済ませる。外に出ると、夜風が頰を撫でる。街灯の下、別れの挨拶。

「また会おう、彩花。次はもっとゆっくり」

 彼の唇から漏れる吐息が、最後に残る。温かく、甘い余韻を残して。家路につく私の鼻腔に、その匂いが染みついている。もっと、深く嗅ぎたい。体温の奥まで、溶け込むような衝動が、静かに胸を焦がす。

 アパートのドアを閉め、ベッドに横になる。まだ、拓也の香りが消えない。指先で首筋をなぞり、目を閉じる。あの吐息を思い浮かべると、体が熱く疼き始める……。

(第2話へ続く)

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