久我涼一

隣室ストッキングの疼く距離(第2話)

この作品は18歳未満の方の閲覧を禁止します。フィクションであり、現実の人物・事件とは一切関係ありません。

## 第2話:エレベーターの擦れ合う吐息

 翌朝のエレベーターは、平日特有の静かな混み方をしていた。俺はいつものようにスーツの袖を整え、ボタンを押す。扉が閉まる直前、隣室のドアが開く音がした。遥だった。黒いタイトスカートに、今日も薄いグレーのストッキング。昨夜の雨粒の記憶が、俺の視界に重なる。彼女は軽く息を弾ませ、荷物を抱えて駆け込んできた。

「おはようございます、佐倉さん。ギリギリで助かりました」

 柔らかい笑顔で礼を言われ、俺は小さく頷く。エレベーター内は狭く、二人の距離が自然に縮まる。彼女の肩が俺の腕に触れ、ストッキングに包まれた膝がわずかに俺の脚に寄る。揺れで生まれる密着。ナイロンの滑らかな感触が、スーツの生地越しに伝わってくる。昨夜の視線が、頭に蘇る。あの廊下の緊張が、まだ消えていない。

「こちらこそ。今日も忙しいんですか」

 俺の言葉に、彼女は肩を落としてため息をついた。エレベーターがゆっくり降りる間、会話が途切れそうになるのを、互いの視線が繋ぐ。

「ええ、上司の無茶振りで。昨日の資料、夜中まで直してたんですよ。もう、限界かも」

 彼女の声に、疲労の色が濃い。エレベーターが一階に着き、扉が開く。外は曇天の平日朝、街路樹の葉ずれが静かに響く。俺たちは自然と並んで歩き出す。マンションのエントランスを出て、駅までの短い道。普段なら一人で黙々と向かうルートが、今日は違う。彼女のストッキングの脚音が、俺の耳に寄り添う。カツカツと、ヒールのリズム。ふくらはぎの筋が、歩くたびに微かに収縮する。

「俺も似たようなもんですよ。商社なんて、数字がすべて。休みの日も頭から離れない」

 俺がそう返すと、彼女の目が少し輝いた。共感の糸が、細く繋がる。

「本当ですか? 佐倉さんみたいなベテランでも、そんなことあるんですね。なんか、安心します」

 駅の改札前で別れるはずだったが、彼女の愚痴は止まらなかった。電車を待つホームで、互いの仕事話を交わす。彼女の会社は広告代理店だという。クライアントのわがまま、残業の山、上司の無配慮。言葉の端々に、溜まった苛立ちがにじむ。俺はただ聞き役に徹した。42歳の独身男が、こんな朝に28歳の隣人と話すなんて、ありふれた出来事のはずだ。なのに、胸の奥で何かが疼く。背徳的な渇望。隣室という距離が、日常の隙間に忍び込む。

 電車内で、彼女は俺の隣に立った。満員ではない平日朝の車両、でも揺れで体が寄り合う。彼女のタイトスカートの裾が、俺の手に触れそうになる。ストッキングの光沢が、窓からの光を柔らかく反射する。太ももの内側、膝の裏。昨夜の雨粒が乾いた今も、あの艶が残っている。俺は視線を新聞に落としたが、無駄だった。彼女の吐息が、首筋にかかる。仕事の愚痴を続けながら、彼女の指が無意識にストッキングの膝を撫でる。軽く、爪を立てずに。ナイロンの表面を滑る仕草。疲れをほぐすような、ありふれた動作だ。それなのに、俺の息が止まった。

 あの摩擦音。廊下で聞いたのと同じ。ストッキングの薄い膜が、肌の熱を閉じ込めている。彼女の指先が、膝から少し上へ。太もものラインをなぞるように。無意識か、それとも。俺の胸に、抑えきれない想像が膨らむ。大人同士の責任。仕事、独身の日常。それを盾に、俺たちは生きてきた。なのに、この電車内で、こんな視線を。彼女の指が止まり、俺の方を見る。瞳に、わずかな照れと、何か別の光。

「ごめんなさい、つい癖で。疲れると、こうやって撫でちゃうんです」

 彼女の声が低く、囁くように。電車が駅に着き、俺たちは降りる。改札を出て、別れの挨拶を交わすはずだった。だが、彼女が足を止めた。

「佐倉さん、今日は残業ですか? 私も遅くなりそうなんですが……もしよかったら、帰りに少し話せませんか。お酒でも飲みながら、愚痴聞いてもらえたり」

 突然の誘い。いや、約束の布石か。昨夜の視線が、こんな形になるとは。俺の心臓が、徐々に速くなる。背徳の渇望が、胸を熱くする。隣人として、ただの親切として。責任ある選択だ。

「いいですよ。俺の部屋でどうです? ビールくらいならあります」

 言葉が出た瞬間、後悔と興奮が混じる。彼女の頰が、わずかに赤らむ。微笑みが深くなる。

「じゃあ、遥の部屋でお願いします。ワインなら持ってますから。楽しみにしてますね」

 互いの部屋で、酒を。平日夜の約束。俺たちはオフィスへ向かう道を、別れた。彼女のストッキングの脚音が、遠ざかる。俺の指先が、震える。電車内で見たあの仕草。膝を撫でる指。無意識の誘いか、それともただの癖か。仕事中も、その感触が頭から離れなかった。

 残業を終え、マンションに戻ったのは夜の十時過ぎ。廊下は静かで、街灯の光が淡く差し込む。共有ポストを覗き、俺は遥の部屋のドアを見る。まだ灯りはついていない。約束の時間まで、少し待つ。胸の疼きが、ゆっくり膨らむ。隣室の壁越しに、彼女の存在を感じる。ストッキングの熱い感触が、想像の中で指先に絡みつく。大人だからこその衝動。抑えきれない渇望。ドアのノックを待つこの瞬間、互いの視線が再び絡む予感が、甘く重い。

 やがて、隣室のドアが開く音。彼女の足音が近づく。俺の部屋のドアを、軽く叩く。ゆっくりと開く扉の向こうに、遥の微笑み。タイトスカートを脱ぎ、部屋着姿でストッキングのまま。ワインの瓶を手に、疲れた瞳に熱い光。

「待たせちゃいましたね。入ってください、佐倉さん」

 ドアが閉まる瞬間、視線が熱く絡みつく。酒の香りと、ストッキングの微かな摩擦音。夜の静寂が、二人を包む。この部屋で、何が起きるのか。俺の胸に、抑えきれない予感が広がっていた。

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