藤堂志乃

夫の知らぬ妻の隣人疼き(第1話)

この作品は18歳未満の方の閲覧を禁止します。フィクションであり、現実の人物・事件とは一切関係ありません。

## 第1話:隣人の視線が静かに忍び寄る夜

 夕暮れのマンションは、平日特有の静けさに包まれていた。街灯の淡い光が廊下の窓から差し込み、コンクリートの床に長い影を落とす。美咲は三十路を過ぎた三十二歳の身体を、いつものように台所で動かしていた。夫の健一が帰宅するまでの時間、夕食の支度に没頭する。だが、その動作は機械的で、心のどこかに薄い霧のような物足りなさが漂っていた。

 健一は四十歳を目前に控えたサラリーマンだ。朝早く家を出て、夜遅くに帰る。会話は天気や仕事の愚痴に終始し、ベッドでは互いに背中を向け合って眠る日々が続いていた。結婚十余年、愛情は確かにあった。だが、それは穏やかな川の流れのように、波立つことなく静かに流れているだけだった。美咲の胸の奥で、何かが息苦しく疼く瞬間が増えていた。鏡に映る自分の姿──柔らかな曲線を描く胸元、腰のくびれ──それらを、健一の視線が最近、素通りするようになったことに気づいていた。

 そんなある雨の降る午後、隣の部屋に新しい住人が越してきた。三十五歳の拓也という男だった。引っ越しの荷物を運び込む姿を、玄関先で偶然目にした。逞しい肩幅、作業着の下に浮かぶ筋肉の陰影。汗で湿ったシャツが、胸板の厚みを強調していた。美咲は挨拶を交わす際、わずかに視線を合わせた。あの目──深く、静かに底知れぬ何かを湛えていた。言葉はなく、ただ一瞬の沈黙。だが、その視線は美咲の肌に、かすかな熱を残した。

 それ以来、廊下ですれ違うたび、拓也の視線は美咲を捉える。エレベーターの中で、荷物を抱えたままの彼の目が、彼女の首筋をなぞるように滑る。言葉はない。ただ、静かな視線の重み。美咲はそれを意識しないよう努めた。夫の存在を思い浮かべ、心を抑え込む。だが、夜、ベッドで目を閉じると、あの視線が蘇る。胸の奥を、ゆっくりと掻き乱す。息が浅くなり、指先が無意識にシーツを握りしめる。

 ある平日の夕方、健一が帰宅した。いつものように疲れた顔でソファに沈み、ビールを一口飲む。

「来週、出張だ。三泊四日。東京の支社で会議が長引くらしい」

 健一の言葉に、美咲は頷いた。心に小さな波が立つ。一人きりの夜。三日間。このマンションの静寂の中で、隣の部屋の気配を意識せざるを得ない。拓也の住む部屋は、壁一枚隔てたすぐ隣だ。夜の足音、かすかな物音が、時折聞こえてくる。

「気をつけてね。無理しないで」

 美咲の声は穏やかだった。健一はテレビに目を向け、軽く手を振るだけ。夕食を済ませ、互いの背中を向け合って眠りにつく。美咲の胸に、淡い疼きが広がった。健一の寝息が規則正しく響く中、彼女は天井を見つめた。隣の部屋の壁が、妙に近く感じる。

 出張前夜。健一はスーツケースをまとめ、早々に眠りについた。美咲は一人、リビングのソファに座っていた。窓の外は闇に沈み、遠くの街灯がぼんやりと光る。静寂が重くのしかかる。ふと、隣からかすかな音がした。水道の流れる音か、それとも足音か。拓也の存在が、壁越しに息づいている。

 美咲は立ち上がり、キッチンでグラスに水を注いだ。冷たい水が喉を滑る。だが、心の渇きは癒えない。あの視線を思い出す。廊下で絡みついた、深く静かな眼差し。首筋を、胸元を、ゆっくりと這うように。身体の芯が、わずかに熱を持つ。抑えようと努めるのに、息が浅くなる。

 ベッドに入ったのは、午前零時を過ぎてからだった。一人きりの部屋は、いつもより広く、冷たく感じる。シーツの感触が肌に直接触れ、敏感に反応する。目を閉じると、拓也の輪郭が浮かぶ。逞しい肩、汗ばんだ首筋。視線が、彼女の身体を剥ぎ取るように注がれる想像。胸の奥で、何かが蠢き始める。

 指先が、無意識に首筋へ。そこに残る視線の余熱をなぞるように。息が乱れ、抑えられた吐息が漏れる。夫の出張が明日から。壁一枚隔てた隣人の気配が、夜の静寂を満たす。この疼きは、どこへ向かうのか。美咲の心の奥底で、静かに何かが動き出していた。

 翌朝、健一は出張へ旅立った。玄関の扉が閉まる音が響き、マンションは再び静けさに戻る。美咲は一人、鏡の前に立つ。頰に上気した色。胸の鼓動が、速い。あの視線の余熱が、指先を疼かせる。一人きりの夜が、訪れようとしていた。

(第2話へ続く)

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