芦屋恒一

湯煙に溶ける隣妻の視線(第2話)

この作品は18歳未満の方の閲覧を禁止します。フィクションであり、現実の人物・事件とは一切関係ありません。

## 第2話:湯煙越しの再会と視線の重み

 部屋に戻った俺は、障子の向こうのシルエットが頭から離れなかった。あの柔らかな輪郭、湯に浸かるようなゆったりした動き。まさか遥ではないはずだ。地元の小さな温泉旅館、平日の一人旅。偶然が重なる確率など、限りなく低い。それでも、心の奥で微かなざわめきが収まらない。夕食の時間まで横になり、目を閉じようとしたが、隣室から漏れるかすかな水音が耳にこだまする。静かな山間の宿、木の軋む音だけが響く廊下。現実を言い聞かせ、浴衣の裾を直した。

 夕食処は旅館の一階、畳敷きの広間で、客は俺を含め数人ほど。平日特有の静けさで、湯上がりの大人の男女が控えめに箸を動かしている。俺は窓際の個室風の席に通され、地元の川魚の刺身と山菜の煮物が並ぶ。箸を手に取った矢先、入口の引き戸が静かに開く音がした。視線を上げると、そこに遥が立っていた。浴衣姿、髪を軽くまとめ、頰に湯の紅潮が残る。彼女も俺に気づき、一瞬目を見開いた。

「芦屋さん……本当に、隣室だったんですね」

 彼女の声は控えめで、朝の挨拶を思い起こさせる柔らかさ。俺は立ち上がり、軽く頭を下げた。「ああ、驚いたよ。君もこの宿か」

 遥は隣の席に案内され、俺の向かいに座る。女将が酒の肴を運びながら、「ご夫婦でお越しですか」と尋ねると、彼女は穏やかに否定した。「いえ、一人で。夫が急な出張で……」その言葉に、朝のアパート前の情景が重なる。夫の不在、孤独な視線。俺はグラスに注がれた地酒を一口傾け、言葉を選んだ。

「出張が多いそうだな。負担になるんじゃないか」

 遥は箸を止め、窓の外の闇を見つめた。夕暮れが過ぎ、谷間の木々が黒く沈む。「ええ、営業の仕事ですから。でも、慣れました。芦屋さんは……定年後、一人でよくお出かけになるんですか?」

 互いの日常が、控えめな会話の中で零れ落ちる。俺は会社の長年の責任、家庭を持たなかった現実を淡々と語った。彼女は夫の転勤続きの結婚生活、週末だけの短い再会を、静かに明かす。言葉の合間に視線が絡む。彼女の瞳は湯の光を映し、微かな潤みがある。年齢差の壁を超え、大人同士の重みが空気を甘く染めていく。酒が進むにつれ、笑みが自然に交わる。遥の指先がグラスをなぞる仕草、浴衣の襟元から覗く鎖骨の白さ。俺の胸に、静かな疼きが広がった。

「こんなところで会えるなんて、縁があるのかもしれませんね」

 彼女の言葉に、俺はうなずきを返した。軽率な返事は避け、ただ「そうだな」と。夕食が終わり、部屋に戻る頃には、互いの足音が廊下で寄り添うように響いていた。別れ際、遥は小さく頭を下げ、「おやすみなさい」と。俺は「ゆっくり休め」と答え、部屋の障子を閉めた。心臓の鼓動が、酒のせいだけではない。

 湯気の残る身体を清めようと、大浴場へ向かった。夜の九時を過ぎ、貸し切り状態の内湯。熱い湯に肩まで浸かり、目を閉じる。山の静寂が耳に心地よい。湯煙が立ち上る中、入口の扉が控えめに開く音がした。女湯からかと思ったが、こちらの湯船の端に、ぼんやりとした人影が現れる。旅館の古い造りで、湯煙の向こうに男女の仕切りが薄く、平日ゆえのゆったりした作法か。いや、視線を凝らすと、それは遥だった。彼女も一人、湯に浸かるために来たらしい。互いに気づき、一瞬の沈黙。

「芦屋さん……失礼、こちらも入浴ですか」

 遥の声が湯気を越えて柔らかく届く。俺は目を逸らさず、静かに答えた。「ああ、湯気が心地いいな」

 言葉少なに、湯船の距離を保つ。だが、湯煙に溶ける彼女の肌の白さが、欲望を静かに煽る。肩から鎖骨にかけての柔らかな曲線、湯に濡れた髪が首筋に張りつく。俺の視線を感じたのか、遥は軽く身体を沈め、頰を赤らめた。年齢を重ねた俺の身体も、湯の熱とは違う疼きで熱を持つ。視線の重みが、水面を震わせるようだ。非現実的な偶然が、現実の甘い緊張を生む。彼女の瞳が、こちらをちらりと見つめ返す。一瞬の合意のような、静かな誘い。

 湯上がり、部屋に戻る頃には夜が深まっていた。浴衣をまとい、布団に横になる。障子越しに、隣室の気配が濃くなる。かすかな衣ずれの音、湯上がりの身体を拭く仕草。そして、静かな寝息。遥のものだ。規則正しく、しかし微かに乱れたリズム。朝の寂しい視線、夕食の会話、大浴場の湯煙。すべてが繋がり、俺の抑制がわずかに揺らぐ。手が障子に伸びそうになるのを、ぐっと堪える。大人なら、待つ。状況が自然に熟すのを。

 夜はまだ長い。障子の向こうで、何が起きるのか。

(約1980字)