芦屋恒一

湯煙に溶ける隣妻の視線(第1話)

この作品は18歳未満の方の閲覧を禁止します。フィクションであり、現実の人物・事件とは一切関係ありません。

## 第1話:夏の終わりの微かな予感

 夏の終わりが近づく頃、俺の日常は変わらず静かに流れていた。55歳の独身、芦屋恒一。長年勤めた会社を定年退職し、今は小さなアパートで一人、静かな日々を送っている。仕事の責任を背負い、家庭を築くこともなく、ただ現実を淡々と受け止めてきた。隣に住む女性、遥とは、引っ越してきた当初から顔を合わせる機会が多い。32歳の人妻で、夫は大手企業の営業マンだそうだ。出張が頻繁で、家にいるのは週の半分ほどもないらしい。

 朝のゴミ出しの時間、または夕暮れの買い物帰り。玄関先でばったり会うと、彼女は穏やかな笑みを浮かべて挨拶を交わす。「おはようございます、芦屋さん」「お疲れ様です」。その声は柔らかく、控えめだ。だが、最近気づくようになったのは、彼女の視線に宿る微かな寂しさ。夫の不在が長いせいか、言葉の端々に孤独が滲む。俺はただ、うなずき返すだけ。軽々しい言葉はかけない。年齢も立場も違う。互いに責任ある大人として、距離を保つ。それが自然だった。

 ある夕方、いつものようにリビングの窓から外を眺めていると、遥の家の前に車が停まった。夫の出張帰りか。ドアが開き、彼女が一人で荷物を運び込む姿が見えた。夫は車から降りず、すぐにエンジンをかけた。別れの挨拶も短く、車は静かに走り去る。遥は玄関で小さく手を振り、ため息のように肩を落とした。その瞬間、彼女の視線がこちらの窓に向いた気がした。俺は慌ててカーテンを引いたが、心臓の鼓動が少し速くなった。気のせいか。だが、あの瞳の奥に、日常の重みが映っていた。

 そんな日々が続く中、俺は地元の温泉旅館への一人旅を計画した。夏の暑さがようやく和らぎ始めた平日、身体の疲れを癒すためだ。古くからある山間の宿、静かな湯治場として知られる場所。予約を入れ、翌朝の新幹線の切符を手に入れた。荷造りは簡単だ。着替え一式と本一冊。派手な旅など、俺には似合わない。

 出発の朝、早朝の空気はひんやりと澄んでいた。アパートの階段を降り、駐車場に向かう。すると、隣の遥の家の前に、スーツケースが置かれているのが目に入った。彼女が一人、車に荷物を積み込んでいる。珍しい。夫の車ではない、白いセダンだ。レンタカーか。遥は俺に気づくと、軽く手を上げた。

「芦屋さん、おはようございます。珍しくお出かけですか?」

 俺は立ち止まり、うなずいた。「ああ、地元の温泉にでも。君もか?」

 彼女は少し照れたように微笑んだ。「ええ、夫がまた急な出張で……。一人で、ふらっと。たまにはいいかなって」

 その言葉に、俺の胸がわずかにざわついた。夫の不在がまたか。彼女の声は明るいが、瞳の奥にいつもの寂しさが浮かぶ。スーツケースを閉じ、彼女は俺の方をちらりと見た。視線が絡む一瞬、夏の残り香のような甘い緊張が空気に混じる。俺は言葉を探したが、ただ「気をつけてな」とだけ言った。彼女は「ありがとうございます」と答え、車に乗り込んだ。エンジン音が遠ざかるのを、俺は黙って見送った。

 心に微かな予感が芽生えた。何か、変わるかもしれない。そんな非現実的な思いが、胸の奥で静かに疼く。いや、ただの偶然だ。大人なら、そう言い聞かせる。

 新幹線に揺られ、山道を走る送迎バスに乗り換え、旅館に着いたのは昼過ぎだった。古い木造の建物、静かなロビー。平日ゆえ、客はまばらだ。フロントで鍵を受け取り、部屋へ向かう。廊下は磨かれた板張りで、足音が控えめに響く。二階の角部屋、窓からは木々が茂る谷が見渡せた。荷物を置き、早速湯巡りをしようと浴衣に着替える。

 大浴場は貸し切り状態に近く、湯気の向こうに誰もいない。熱い湯に肩まで浸かり、目を閉じる。長年の疲れが溶けていくようだ。夕食の時間まで休もう。部屋に戻り、障子を閉めると、隣室からかすかな物音が聞こえた。水音か。湯気の匂いが、わずかに漂ってくる。

 ふと、障子越しに視線を向けた。薄い紙の向こう、ぼんやりとしたシルエット。女性の輪郭、湯船に浸かるような柔らかな動き。心臓の鼓動が再び速くなる。あの朝の遥か? いや、まさか。だが、予感が現実味を帯びてくる。湯煙に溶けるその姿が、俺の抑制を静かに揺さぶった。

 夜はまだ長い。続きが、どうなるのか。

(約1950字)