神崎結維

湯煙に溶ける男装の視線(第1話)

この作品は18歳未満の方の閲覧を禁止します。フィクションであり、現実の人物・事件とは一切関係ありません。

## 第1話:湯煙越しの柔らかな視線

 平日暮れ時の山道は、霧に包まれたように静かだった。遥はハンドルを握りしめ、アクセルを緩やかに踏み込んだ。二十八歳の彼女は、街の喧騒に疲れ果て、ようやくこの山奥の温泉宿に辿り着いた。仕事のプレッシャー、人間関係の擦れ違い──すべてを洗い流したくて、独りで車を飛ばしたのだ。宿の玄関をくぐると、女将の穏やかな笑みが迎え、薄暗いロビーに木の香りが漂っていた。夕餉の支度が整うまでの間、まずは湯に浸かろうと、遥は浴衣を羽織って露天風呂へと向かった。

 露天風呂は宿の裏手、苔むした石段を下りた先に広がっていた。湯船は岩肌に囲まれ、蒸気が立ち上る中、周囲の木々が風にそよぎ、遠くで川のせせらぎが聞こえるだけ。平日ゆえに客はまばらで、遥は湯船にゆっくりと身を沈めた。熱い湯が肌を包み、肩の凝りが溶けていく。目を閉じ、深く息を吐く。湯煙が視界をぼやけさせ、世界が柔らかく滲む。

 ふと、気配を感じた。湯気の向こう、岩の陰からもう一つの影が現れた。細い肩、しなやかな首筋、黒髪が湿って頰に張りつくシルエット。女性客だろうか。遥の視線が、自然とその姿を追った。相手もこちらに気づいたらしく、ゆっくりと湯に浸かる音が響いた。互いの存在が、湯煙越しにぼんやりと浮かび上がった。

 その女性──いや、二十五歳の澪と名乗る青年だったが、遥にはまだ知る由もない──は、柔らかな肌を湯に委ね、目を細めてこちらを見つめ返した。澪の浴衣は脱ぎ捨てられ、湯に濡れた肢体が灯りの揺らめきに照らされ、艶めかしく光る。胸元は控えめながらも滑らかで、腰のラインはしなやか。女装の端正さが、湯煙の中でより曖昧に、魅惑的に溶け合う。遥の胸に、名状しがたいざわめきが広がった。あの肌は、触れたらどんな感触だろう。指先でなぞったら、どんな震えが返ってくるのか。

 視線が絡み合う。澪の瞳は、湯気のヴェール越しに深く、遥の心を覗き込むようだ。遥は慌てて目を逸らそうとしたが、遅かった。澪の唇がわずかに弧を描き、息が漏れる。「……熱いですね、この湯」。声は低く、柔らかく響いた。男か女か、境界が曖昧な響き。遥の喉が、思わず鳴った。「ええ……でも、心地いいわ」。言葉を返しながら、遥は自分の声が少し震えていることに気づいた。湯船の中で、足が無意識に動く。互いの体温が、水面を伝って近づいてくるような錯覚。

 湯煙が二人の間を漂い、視界をさらに曖昧にした。澪の肩が、湯に揺れて光る。首筋に一筋の湯滴が伝い、鎖骨へと落ちる。その軌跡を、遥の目が追う。澪もまた、遥の胸元を、濡れた髪を、じっと見つめている。息遣いが、湯気の流れに混じり合う。熱い。空気が、肌を焦がすほどに熱い。遥の胸が、ざわつきを増す。これは、ただの湯の熱か。それとも、もっと深い疼きか。澪の視線が、遥の唇に落ち、ゆっくりと這い上がる。互いの境界が、溶けそうで溶けないギリギリのところで、緊張が張りつめる。

 「ここ、初めて?」澪の声が、再び湯気を裂く。遥は頷き、「ええ、仕事の疲れを癒したくて。あなたは?」。「私も……同じようなものよ」。澪の言葉に、微かな揺らぎがある。女言葉の柔らかさの中に、どこか男性的な響きが潜む。遥の心臓が、速くなる。あの曖昧さが、胸を掻き乱す。もっと知りたい。もっと近づきたい。でも、踏み込めない。この距離が、甘い毒のように体を蝕む。

 湯上がりの肌が、火照ったまま。遥は湯船から上がり、浴衣を纏う。澪も同じく立ち上がり、二人は石畳の通路で並んで歩く。肩が触れそうで触れない。湿った空気が、二人の体温を運ぶ。宿に戻る階段で、澪が振り返る。「また、明日も来るわね」。その言葉に、約束めいた響き。遥は頷き、言葉を探すが、喉が乾くばかりだ。

 夕餉を終え、遥は自室の布団に横になった。山の夜は静かで、窓から入る風が涼しい。目を閉じても、湯煙越しの澪の姿が浮かぶ。あの肌、あの視線。あの曖昧な魅力に、胸が疼く。恋か、錯覚か。境界がぼやけ、熱が肌に残る。

 すると、隣室から微かな音が響いた。衣ずれの音。布の擦れる、柔らかな響き。澪の部屋だ。遥の耳が、思わず澄ます。息が漏れる音か、それとも指先の動きか。壁一枚隔てた向こうで、何かが蠢いている。遥の体が、熱く疼き始める。扉を開けたい衝動に駆られながらも、ただ息を潜めて耳を澄ます夜は、果てしなく長かった。

(第1話 終わり/約2050字)

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